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自由に囚われる不自由さについて
いやー、こんなこと言ってはいけない。
そう思いつつもついこの言葉がふとした時に頭の中で浮かんでくる。
自分は自由でいることに縛られているのではないかと。
羽を伸ばしているように見えて鳥籠の中の鳥になっているのではないかと。
自由とはまやかしなのではないかと。
おそらく自分は、大抵の人よりは「自由」に生きているのだと思う。
というかそう言われる。
2年間大学を休学してスイスに行って、今は残された「モラトリアム」をできるだけ謳歌しようとしている。
自分はそれを実現できるくらいの特権を持っている。
特権とはお金であり時間であり、つながりでもある。
自分が一番嫌いなこと。
それは何かと聞かれれば権威や圧力といったものだと思う。
自分の外から働いている力によって無意識のうちに自分の行動が規定されること。
振り返れば自分の判断軸はそういった力から逃げることが一つの大きな指針になっていると思う。
ただ、メタ的に考えれば結局そのような指針に囚われてしまっているというパラドックスも存在している。
そして最近、自分の言葉にも少しずつ権力性が生じ始めていることを感じている。
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昨年芥川賞を受賞した市川沙央さんは、あるインタビューでこう語ったという。
「世の中の本好きたちのみが、高い言語化能力を使い、物語信仰の教条であるような「本に救われた」というフレーズを口にしたがる」
最近自分の言葉に限界を感じている、というより自分の思考や言語化能力に自信が持てていないから、やたらと読んだ本のフレーズを引用しがちである。
自分としては、自分よりも上手く表現することのできる人の言葉を借りることで、書く言葉に自分の意図する意味を正確に与えようとしているのだが、そこには自分の表現が本の持つ権力性の上にあるという側面が生じている。
言い換えれば本という権威を振りかざすことで、自分の言葉に権力性を与えているということだ。
自分は本のことを好きになれたけれど、本を読むことは正直得意ではない。
それは幼い頃からの読書経験がなく、あくまでも読書が自分に根を張っていない後天的行為であるために、読書という行為と自分との間に距離が保たれているからだと思う。
特に何かとノイズの多い今の生活において、読みたい本が多いにも関わらず本に手がついていない。
結局読みたい本がどんどん溜まっていくだけになって、自分の無力さをしばしば痛感する。
そうしてインプットが疎かになることでアウトプットの質が低下しているために、その質を担保しようと本にすがっているという一見矛盾した状態に陥っている。
市川さんの言葉に戻れば、「山に救われた」という言葉も、まずは健康な体や十分な体力があるなどの身体的特権性を前提としているという意味で権力性を持つ。
曲がりなりにも山の世界に携わっている身として、このことは常に意識しなければならない。
ただ権力性を持つことに怯えていると、結局のところ何も変えられないし何も進まないとも思っている。
大事なのは権力の負の側面を常に意識し続けることだと信じたい。
先ほどの市川さんの言葉と出会った現代思想9月号「読むことの現在」には、書評家の三宅香帆さんによる「読書のマッチョ性」に関する文章も載せられている。
その文章の終盤には以下のような一節がある。
「しかしたまたま本を読むことができて、そして、まだ自分の共有したい言葉を共有してくれる本と出会ってないだけなのならば。私はそういう本を、あなたに紹介したい」
僕はこのような言葉を信じたいし、このような言葉に希望を抱いていたい。
特権を持つ人間として、せめて価値ある物事にそれ相応の価値を与えていきたいから。