神の社会実験・第18章
男性が話終えるまで黙って聞いていた父は、そこで穏やかに微笑み、「貴重なご意見を、ありがとうございました」と礼を述べた。母も軽く頭を下げて、神妙に「ありがとうございました」と言った。
正直、僕にはこの人の言う「ボブ・マーリーの魂の追及」なる物が一体何なのかは良く分からなかった。でも、とりあえずこの人がこの島に残ったことを後悔していない事と、島のシステムが結構ちゃんと機能している事は分かった。お金の心配が皆無で、だらけようと思えば幾らでも怠けられる所で、ちゃんと社会が機能している。それは、天使や悪魔の存在など、ここの隣の島国と違った[何か]があるからだろうか。それとも、神様が選んだ人たちが結構ちゃんとした人たちだからだろうか。現に、初めは浮かれてしまっていた、一見ちょっと頼りなさそうなこの出前の男性も、他の人たちが嬉々として働いているところを見て悩んでしまったあたり、根は割と真面目なのだろう。
僕の知る限り、父も母も音楽活動は趣味であって仕事では無いなんていう、硬い考えを持つ人たちではない。でも、僕の将来を決めるのに、この体育会系なのに少しフラフラした男性の意見をどれ程まで参考にしているのかは、見当もつかなかった。多分、この人を捕まえて、息子の知り合い第一号として、よろしくお願いします、なんて事にはならないだろうな。すごく良い人そうなのは、確かなのだけど。僕がそんなことを考えていると、母が少し声を潜めてこう言った。
「あの…正直に仰ってください。この島に来て、おかしな事や嫌な事は、ありませんでしたか?怪しい所や、怖い事など。」
出前の男性は、何の事か分からないという様に、ぽかんとした表情で母を見返した。それは、ほんの一瞬の事だったが、その事でこの人に対する父と母の信用が少し落ちたのを、僕は密かに確信した。男性はしばし考え込み、顎を擦りながら答えた。
「嫌な事ですか。自分に限っては、ありませんね。あるとしたら、自分の情けなさに打ちひしがれていた時の自己嫌悪位です。それから、たまにこんなに幸せで良いのかな、と心配になる時もあります。もしかしたら全部夢だったんじゃないかと怖くなったりもします。おかしなことと言えば、お医者や裁判官などと自分が同等って言う事ですね。この島の人達が言うには、それは本来当然な事だそうですけど、それは、未だに慣れられません。どうしても、頭を下げる習慣も抜けないままです。
僕の知っている限り、怖い所は、肝試しスポットくらいかな。怪しい所と言えば、へんてこな発明品を扱っているお店なんかはちょいちょいありますけど、危ない感じではありません。」
母は完全に納得した様子では無かったが、一応頷いていた。すると父が、
「人が暮らしている以上、事故などで揉め事になる時もあると思いますが、その時お金が無いとなると、賠償はどうなるのですか?」と穏やかに尋ねた。
すると男性は又もや考えたこともなかったという風に考え込み、
「自分はまだこの島に来て一年ほどですが、賠償の問題を耳にしたことがありません。ニュースは割かし見ている方ですけども。治安は物凄く良いですし、事故はフリークライミングやスキューバダイビングなどの娯楽関係以外、殆どありませんし。自分の知る限りでは、問題はとことん話し合いで解決するようです。裁判も、お裁きというよりは、心理学者なんかを含めたカウンセリングという感じだって聞きました。それに、揉め事の殆どは色恋沙汰みたいですね。こればっかりは神様も、どうにもできないみたいです。」
そう言って男性はくすっと笑った後、慌てて僕を気にしたように「失礼」と咳き込んだ。父は何も気づかなかったかのように、次の質問を投じた。
「お金や地位が物を言わないという社会では、偉くなりたい、威張りたい、資産を築きたい等の欲求はどう解消されているのでしょうか?」
男性はまた一瞬困ったような表情を浮かべて、頭を傾げた。
「収入や待遇に関係はありませんけれど、職業によってはランクがあります。そう言ったランクを登ることで欲求を満たしているのではないでしょうか?芸術や食べ物のコンクールなんかもありますし。後、自分は参加していませんが、しょっちゅう色々なゲームが開催されているようです。
関係あるかどうか分かりませんが、独占欲とか、そういった際限のない欲求は、精神的な不安や不満に起因するらしいです。この島では、不安な人はいないってことなのかも知れません。それか、よっぽどここの精神科の先生達の腕がいいとか。」
「成程。では、全てが無料という事で、アルコールなどの嗜好品が乱用されたりする事件は起こりますか。」
「これは、大将から聞いた事なんですけど」と男性は自信無さげに前置きを述べ、上目遣いに父を見た。父は、彼の目を見て勇気付けるように頷いて続きを促した。
「この島にはお金という制度はありませんけど、常識的に資源の無駄遣いは制限されているそうです。例えば飲食店などにおいて、明らかに酔っぱらっている人にはアルコールは提供されません。外の世界と違って売り上げを気にする必要がありませんから、無責任に無茶な量の注文に応じる理由もないからです。ホームパーティーなんかでは分かりませんけど、自分はそういった事故は聞いたことはありません。」
父はしばらく腕を組んで考えていたようだが、「分かりました。ありがとうございました」と男性に告げた。男性は、母と僕に向かって何か質問は無いかと目で問いかけたが、僕らも礼を言って頭を下げると、「こちらこそ、ありがとうございました」と丁寧にお辞儀をして、てきぱきと空になった出前の膳を下げて部屋を後にした。
出前の男性が帰ると、すぐに院長先生が部屋に戻ってきて、にこやかにほほ笑み、「いかがでしたか」と尋ねた。
僕ら一家が代わる代わるお互いの表情を伺っていると、
「そろそろご決断を」と迫られてきた。当然のことだ。
随分長い事のように感じられた沈黙の後、最初に口を開いたのは、また母だった。
「お食事は大変美味しかったです、どうも御馳走様でした。それに、出前の方のお話を聞く限り、生活面での心配は無さそうな事も分かりました。でも、やっぱり、こんなに突然息子を手放せと言われても、心の準備が…。それに、もし一人息子がここに残るとなると、孫にも会えなくなる訳ですし… それは、やはり辛いです。」
俯き加減にそう言った母を、先生は労わる様な優しい声で、しかし、しっかりと諭した。
「お気持ちは痛いほど分かります。でも、チャンスとは、流れ星の様に突然やって来て、捕まえなければすぐに消えてしまう物です。もしも明日、世界戦争が始まって、比較的安全な疎開先に行ける飛行機の席が一つ空いていたら、もう会えないかもしれないと思われても、貴方方はきっと迷わず息子さんを乗せることでしょう。そう言う事です。さあ、如何なさいますか。」
父は、意気消沈して黙り込んだ母の手を励ますように握りしめた。
「何だかんだ言っても、これは結局あいつの問題だ。僕だっていきなり子離れできる気分ではないけど、親の愛情が子供の将来のチャンスを潰すのは、本末転倒だ。僕らがこんなに頑張っても、ここにいてはいけない理由は見つからなかった。あいつは、何時だって感が良かった。あいつがいいと思うなら、ここにいさせてあげようじゃないか。」
次の瞬間、全ての注目が僕に集まった。唇を真一文字に結んだ父。泣きそうな母。ペルシャ猫の様に表情が読めない院長先生こと悪魔。そして僕は気付いていた。母には悪いけど、いつの間にか僕の決心は固まっていたことに。
「僕は…ここに残ってみたい。鰻に釣られた訳ではないけど。母さん、ごめん。でも、期待が外れたら、またすぐ戻ってくるかもしれないよ。」
ぼくがそう言った途端に、母は本当に泣き出してしまった。父はそんな母の肩を抱き寄せ、院長先生は、これまでに無いほど美しく大きな笑顔を見せた。その時に僕はほんの少しだけ、やっぱり間違いだったのかなと思った。
「さあ!そうと決まったら善は急げ、です。息子さん、ご両親にお別れを言ってください。後の手続きは天使たちに任せましょう。」
僕は、むせび泣く母と悲しげに微笑む父を交互に見た。毎日当たり前の様に会えると思っていた両親に別れを告げるのは、とても変な感じだったし、母の泣き顔を見るのは胸が痛んだ。本当にこれでいいのだろうか。僕が躊躇していると、母にがばっと抱き寄せられた。僕の肩ほどしか背がないのに、力強い腕。その僕らを、父が包み込むように抱きしめた。僕が覚えている限り初めての、家族ハグ。
「またね、元気でね」と母。
「楽しんでこい」と父。
僕は何も言えずに頷いた。鼻の奥がつんと痛かった。