自爆営業①起源とその性質
Cautionーー1,712文字
自爆営業にようやく厚労省のメスが入った。
そもそも営業とは売れないものを売る仕事であると認識している。市場で競争力のないものを口八丁手八丁で捌き、あたかも需要があるかのように見せる手法に疑問を持っていた。
ここで偏見と思われては癪なので一言断っておくが、マーケティングの営業活動や販売促進のキャンペーンは別だ。この場で語る営業とはノルマ達成の為、販売員が身銭を切り買い取るという旧態依然たる陋習を指している。
身近な例を挙げるなら、かつての郵政省だ。局にもよるが、数千から万単位の年賀はがきの販売ノルマを職員に課していた。一部の職員は自爆営業で金券ショップに持って行く。
この例を見てもわかる通り、営業とは売れないものを売る仕事である。
小学生の頃、マッチ棒を売りに来た話しを思い出し母に取材してみた。
「そう言えば昔マッチ棒を売りに来た訪問販売の話ししてたよね?他に何を売りに来たの?」
「ゴム紐とか」
「ゴム紐⁈」
ゴム紐とは恐れ入った。百均で売ってるヘアバンドが脳裏に浮かんだがそれではなかった。
「パンツのゴムが緩んだ時の入れ替えよ。あんたは笑うけど、昔は絶対にいるもので、タンスの引き出しに丸めてしまってたのよ」
昭和50年代だが、体操服ズボンのゴムが緩み、ゴム紐を付け替えて貰った記憶が無きにしも非ず。
「他には?」
歴史好きの私は急に興味をそそられた。
「北海道の珍味3袋で千円。今なら買うかもしれないけど、あの時は興味なかったから」
なるほど。宮崎県の山岳地帯に生まれ育ち、行商が売りに来る塩鯨しか食べたことがない母にとって、北海道の珍味は別の惑星の食べ物だったのかもしれない。
ちなみに出産費用は当時15,000円。豆腐が10円の時代だ。
食べることが大好きな母は金に糸目をつけぬが、初めて見る干からびた海産物は見極めが難しかったのだろう。未知の食べ物に1,000円惜しむらくは合理的な判断である。
余談だが、山本有三の路傍の石でも述べているように、貧乏人には貧乏人の見栄というものがある。訪問販売にネガティブイメージのなかった時代には単なる商取引を越えた社会的な繋がりとしての一端があった。
家計が苦しくても、玄関先に立つ者に対し冷たくするのは憚られる。そこには買えるものは買ってやると言う人情が介在していた。
一方、販売員も近所の評判が命である。誠実に振る舞うことで暗黙の信頼関係が構築されていたのだろう。
やがて近所にスーパーができ、日用品や食料品を必要な時に必要な分だけ買える時代が到来すると、訪問販売の形態はその様相を一変させた。もはやそこには人情のかけらも信頼関係も存在しなかった。
当然、恒久的な利益など追求しない商法が蔓延した。販売員が持ち込む商品は生活に不必要な数十万円の健康器具や布団であり、消費者のニーズは無視され、売るという行為に特化した短絡的な販売手法に全国の主婦たちは眉を顰め疑念を抱いた。
これは当時の時代背景から説明せねばなるまい。訪問販売は平日の日中に来ることが多かった。当然旦那は仕事に行き、主婦は家庭で留守を守ってる。
彼らにとっては家計を握る一人の主婦を相手にする事はたやすいことであり、彼女たちは恰好の標的にされ、「買わされた」と嘆いた残響は全国に広まった。
再び余談だが、共働きが主流の現代社会では想像することが難しいかもしれないが、当時は高度経済成長期であり共働きする必要などは、なかった。むしろ共働きする家庭があれば若干白い目で見られ
「そこまでしてお金を稼ぐ必要があるのか」
と陰口を叩かれることもあり、主婦は家庭を守るという価値観が社会に深く定着していた。
余談はさらに続くが、「鍵っ子」と言う言葉をご存知だろうか。両親が共働きのため家の鍵を持たされている子供のことであり、当時の社会では差別用語とされるほど、共働きが特異視されていた。このような背景を考えると、専業主婦と言う価値観がいかに強固なものであったかがわかるであろう。
なお、この記憶は昭和47年に政令指定都市に認定された福岡市という都会の話であり、地域によっては幾分の乖離があるかもしれなことをここに一言付け加えておく。