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負けず嫌いってなんだ?

アスリートに必要な気質としてよく言われる「負けず嫌い」。それは競技力向上にどんな影響をもたらすのでしょうか?

あなたは負けることが好きですか?
そもそもスポーツは各プレイヤーが勝とうとすることを前提にルールが定められています。例えば100m走で選手が負けを好んでいた場合、スタートと同時に後ろに走り出すという奇天烈な状況になってしまいます。負けようとする選手の存在など想定していないので、「フライングしたら失格」というルールはあっても「スタートしないのは失格」というルールはありません。
ですから「負け」が嫌いなのは当然というか、「負け」を求めたらゲームが成立しません。

負けず嫌いの分類。

ではその中でも「負けず嫌い」と評されるのはどのような選手でしょうか?
納得のいかないレースをしたときにゴール直後に悔しがって吠えたり地面を叩いたりする選手を見ることがあります。そのような表現をする選手は「負けず嫌い」と評価されるでしょう。
また私は学生時代、「レースで負けたら泣いて悔しがれるようじゃなきゃ強くなれない」と言われたこともあります。

一方で地面を叩いたり涙を流したりしない選手は悔しくないのでしょうか?
同じ出来事に対しても人によって生じる「悔しさ」は、その大きさも、それを自認している割合も、その人の感情の許容量も、それを表現する手段も異なります。そんな他人の感情を外部が評価するのは非常に困難であると言えます。
なのでここでは、まず私自身のことについて考えてみようと思います。

はじめに言っておくと私はレースで泣いたりしたことは一度もありません。でも悔しさを感じないレースなんて年に1本あれば良い方です。
ではなぜ1度のレースで悔しさを表現しないかというと、それは自分の中では勝ちも負けもまだ出ていないからです。例えば箱根駅伝を目標としていた頃で言うと、それまでの記録会やロードレースなどは全て通過点に過ぎません。なので一つのレースの結果はその場では悔しくとも、結論を出すには時期尚早です。悔しがってる暇があるなら次にすべきことを考えます。自分にとっての最終的な「勝ち」が何なのかをハッキリと意識しておくとそれ以外の全ての「負け」は「勝ち」への布石となるわけです。

一方でその場面場面で一喜一憂する人には、私にはない力強さを感じることもあります。
客観的に見れば悔しかろうが悔しくなかろうが今やるべきことは変わらないはずです。ですが「負け」に対する強烈な嫌悪感は、常識から外れた成長をもたらす場合があります。常識では1年かけて堅実な範囲での成長を見込んだ練習をしますが、この強烈な悔しさは1ヶ月で非常識な成長を生むような練習を可能にします。リスクを孕んだこのやり方が良いか悪いかは別として、この「負けず嫌い」はアスリートとして私に足りない気質だと思っています。
ただし私にも「負けず嫌い」はあります。私の場合は勝つまで続ける「負けず嫌い」です。高校時代に一度も勝てなかった相手でも、引退してそこで止まってしまえばいつかはタイムを上回ることができる。それは私の勝ちである。そのためには途中経過でいくら負けても構わない。これが私をここまで辿り着かせた「負けず嫌い」の形です。
私は自分のようなタイプを「執念の負けず嫌い」、先に述べたタイプを「刹那の負けず嫌い」と呼んでいます。


負けず嫌いの落とし穴。

ここまで「負けず嫌い」はアスリートに必要不可欠なものとして話してきましたが、一方で欠点もあることをお話しておきます。とは言え社会生活において"それ"が強すぎると不便になることは言うまでもなく気付いているかと思います。
ことスポーツにおいても、それは然り。一つの勝ちにこだわりすぎるあまりに、最終的な目標に向けて遠回りとなることがあります。

例えば、毎回の練習でいちいち勝ちにこだわって、設定タイムを超えてでもライバルより前でゴールしようとする選手をよく見かけます。これをするとフォームは崩れ、次の練習まで回復はできず、練習の質を落としてしまいます。さらにそもそも低速度域には低速度域での目的があり、その効果を得ることができなくなります。

しかしこれも無駄な感情だと断じて捨てるにはまだ早いです。1回の練習であっても負ける癖をつけることはリスクになります。負け癖というとメンタル面の話に聞こえますが(もちろんそれも大きいが)、フィジカル面でも重要です。スパートの競り合いでは乳酸が出て、無酸素性運動の割合が高くなった状態のまま走ります。この状態は慣れていないとすぐに筋肉が動かなくなってしまいますが、普段から頻度良く経験しておくことで体が感じているよりも深い極限状態で長く動き続けることができるようになります。
この状態を1人の練習で計画して引き出すことも理論上は可能ですが、計画外の勝負の中で至る方が簡単なのです。なぜなら極限に達しているかの判断は、酸素の回らない運動中には難しく、であるならば勝ちにこだわった結果として極限に至る方が容易いからです。
私が思うにこの"計画外"が「負けず嫌い」の最たる恩恵であります。

「勝負」か「記録」か。

「負けず嫌い」は言い換えると「こだわり」と捉えることもできます。ここでまた別の視点から「こだわり」について考えてみます。
陸上競技を極める上で目指す方向性は2つあります。それは「勝負」と「記録」です。
勝負」とはそのレースで1番になることで、タイムは関係ありません。レース展開によってタイムは変わりますが、駆け引きなどを駆使して勝ち切る「勝負」へのこだわりです。他方「記録」とは言葉の通り、より速いタイムを出すことです。それは2番だろうが3番だろうが関係なく、自分の力を高みへと押し進める「記録」へのこだわりと言えます。
100mで言えば「無冠の王者:アサファパウエル」か、「最速よりも最強の男:タイソンゲイ」か。
もちろん世界記録で金メダルを獲れるならそれに越したことはありませんが、誰もがウサインボルトになれるわけではありません。 
また「勝負」と「記録」はゼロサムの話ではなく、人によってそのウエイトに偏りがあります。私で言えば、勝負3:記録7。これは好みの問題であって良い悪いはありません。

ただしここからも傾向は取れると思います。勝負派の人間は総じて「刹那の負けず嫌い」に分類され、記録派の人間は総じて「執念の負けず嫌い」に分類されます。勝負派はそのレースで勝つためにあらゆる努力を惜しまず瞬間的な力を発揮する人が多いです。しかし勝ってしまったらその上がなく、熱量を失ってしまうこともしばしば。第一級の実力を有しながらも、突如として引退する人はこの手のタイプに属する可能性があります。それに対して記録派は瞬発力は劣りますが、どこまでいっても記録への飽くなき欲望から、ひたすらに研鑽を続ける人が多いように思います。

結論:「負け」は誰しもが嫌いだけど、それをどう捉えるかで起爆剤にも足枷にもなり得る。
という至極当然のお話を自分なりに深掘ってみました。あなたはどんな負けが嫌いですか?

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