見出し画像

想像力と創造力

 妙な時代になったものだな、と思う。

 少子高齢社会は私の子ども頃から深刻だと指摘されていた。
 それなのに、最近になって強引に「結婚しろ、子ども作れ、子ども増やせ」という圧力をかけられて、少し呆れている。
 先の鳥インフルエンザの騒動で、深刻な卵不足に陥った。新しく卵を産んでくれる鶏が育つまで、卵の価格はかつて無いほど高騰した。今、産んで育てた世代が育ちきるまで二十年以上かかる。それまで、ずっと、この調子で政治を継続させるつもりなのかと考えると、あまりにも非現実的で呆れるしか無い。
 そもそも、育った雛がこの複雑な社会に適応できるのか。そちらが望む卵を産まなかったら、どうするつもりなのかということを聞きたい。

 教育というのは決して悪いものではないと思う。しかし、問題なのは教育の着地点をどこに置いているのかといことである。
 私は所謂「ゆとり世代」だ。四年制大学にはよほどの事情が無い限り、学力に折り合いが付くのなら通うのは当たり前な世代だった。四年制大学を卒業する者が多くなるということは、必然的にホワイトカラーが増えるということになる。つまり、現場の労働者が不足するのは当たり前のことだ。であるから、私はそういう労働の仕事は機械を導入することで補填する心積もりが政府にあるものだと思っていた。しかし、蓋を開ければ、そんなことは全く無かった。そのことに、とても呆れたし失望した。
 現在の働き手不足の問題などは、そもそも教育について政治家が本気で考えて来なかった結果ではないかと思う。どこかが増えれば、どこかは減るのだ。そのバランスをどうやって取るつもりだったのか。どんな未来図を描いていたのか。

 教育の結果を活かすつもりならば、それに併せた受け皿を持った社会になるよう、社会にいる大人たちへの教育や支援も行うべきだった。それが政治の責任ではないかと思うのだが、その辺りは社会に出た途端、有耶無耶に自己責任として各家庭の問題と蓋をされてしまう。昨日までタブレットしか使っていない世代に、いきなりノートパソコンを押しつけて書類を作るように指示をしても、書類作りが出来ないのは当たり前だ。それなのに「これだから最近の若者は」という言葉で、安直に否定するのは、ただの思考停止の証である。そして、ただ世代ごとのレッテルだけが増えていく。なんの理解も成長も生まない。ただ各世代が断絶して沈滞していく。日本経済の停滞ももっともなことだと思う。

 何かをするには金がかかる。そして、今の日本に金は無い。だから、増税というのは、あまりにも短絡的で物も言えない。
 子どもが生まれない、高齢者が増えている。今の社会は、かつて拡大・成長しきったところから衰退期に入っている。その衰退をいかに緩やかににし、どこを縮小していくべきなのか。現状維持・過去への復帰が無理なのは数字が証明している。ならば、その数字に見合った新しい未来像を創出するしかない。そういう未来を考えるのが政治の集団だと思っていたのだが、どうにも最近の政治の動向を見ていると「現状維持」「高度経済成長期の日本」のことしか頭に無いようで、すっかりと失望している。

 とある実験を思い出した。
 犬に電流を流し続ける実験である。犬は最初は抵抗したり試行錯誤を繰り返すのだが、どんなに頑張っても電流が流し続けられると、無気力になって電流を流されても抵抗しなくなるのだ。
 今の若者たちが考える諦念は、それに似ている。政治離れや制度が浸透しないのも、「どうせやっても無駄」という今まで政府が蓄積して来た国民の失望が背後にあるのではないか。
 日本の過去の栄光を忘れて、誰も見たことの無い国の未来を想像し、創造出来る者が政治の中枢にいないのが、この国の一番の問題ではないかと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?