妙な時代になったものだな、と思う。 少子高齢社会は私の子ども頃から深刻だと指摘されていた。 それなのに、最近になって強引に「結婚しろ、子ども作れ、子ども増やせ」という圧力をかけられて、少し呆れている。 先の鳥インフルエンザの騒動で、深刻な卵不足に陥った。新しく卵を産んでくれる鶏が育つまで、卵の価格はかつて無いほど高騰した。今、産んで育てた世代が育ちきるまで二十年以上かかる。それまで、ずっと、この調子で政治を継続させるつもりなのかと考えると、あまりにも非現実的で呆れる
言葉にしないと伝わらない。 言葉にしても伝わらない。 だから、我々は行動する。 しかし、最近あちこちで見かける「好き」を型にはめる方程式が、どうにも息苦しい。 会話をしている最中に、ふとした「あれ好きなんだよね」と言葉にすると、一定量以上の知識を求められる。少なくとも、その事象について相手が知らない豆知識の一つや二つを披露しないと、「好きじゃないじゃん」とハッキリ言われる。または「にわか」と鼻で笑われる。自分では無く、他人がそういう目にあっているのを見ても、なんだか
ふと顔を上げた。 ただ空が青かった。 何も書かれていなかった。
「好き」と「得意」は、本来なら別物の筈である。 しかし、同一視されることが多い。 例えば、子どもの頃。 本を読むのが好きならば、「じゃあ、国語が得意なのね」。 虫を採るのが好きならば、「じゃあ、理科が得意なのね」。 そんな風に、好きの向こうには必ず「得意」になる道が用意されていた気がする。 好き、というのは感情だ。そのものや行為を好ましいと思う、自分の感覚から発生する個人の気持ちだ。 一方、得意というのは、技能である。その事について精通している、他の人よりも秀
フリマアプリの出始めの頃は、売ってもいたし買ってもいたが、最近は買うばかりになった。 売るものが無くなったのではなく、売るのが面倒になったからだ。 面倒になったのは、主に購入者とのやり取りである。 もっと言えば、購入前に送られるコメントの返信に労力を割かれるのが嫌になったからだ。 即出品、即購入。 売りたいもの、買いたいもの。 供給と需要が一致すれば、スムーズに行われていたやり取りに、ある時から必ずワンクッションが入るようになった。 「値下げしていただけません