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じいじ 保育士を目指す! 夏休みの課題
大学院が夏休みに入って
大学院の合宿が終わって、読まねばならない本を読み終え、
更に読まねばならない本達の二冊を読み終えた。
これは、保育学というより教育学に関して。改めて、解放の保育学が進むべき方向性を確認して、「保育学が公教育を変革する」事の意味を確認した。
この国の現状と未来に向けて、既に子ども一人の教育が平均的なマス授業を進める子ども達の大量生産方式の様な教授法は終わりを告げるべきであり、個別指導と個別の理解によって個々が比べられる(選抜試験によるメリットクラシーの強化)のではなく、個々の何がしたいかという意志を尊重し個別最適化を図れる教育システムにする事。
そして、他人と比較するのではなく、自己の学習到達目標とその達成度で評価し、それを個人へフィードバックするという教育の当たり前の姿に公教育を作り変える事。
この国の教育におけるパラダイムの転換を目指すという意味だ。
日本の中で、『解放の保育学』を実践する場をどう実現するのか。。。そんな事を考えながら読み進めた。
多分、日本の中でレッジョのアプローチを困難にしているのは、時間という制約の中でその制約を如何にして外すのか、保護者や地域との連携をどう生み出し育てるのかではないだろうか?
ここでは特に都市部の園のそういう関係性を紡ぐという事の困難性が直ぐに思い出される。
更に言えば、〇〇メソッドによる早期教育によって。。。的な保護者や外部の圧力との対峙は、時間という即時性と失われる子ども達の可能性をどう守るかという事と直結した困難さ(価値観を超えた本質的な問題)がある。
レッジョ・エミリアを真似ても意味がないと繰り返し本書は言う。確かだけど、このレッジョの実践から汲み取る核心は、どの国においても同じではないだろうか。
そういう実践が可能な幼児教育の場。。。どう実現するか。難しい課題だ。
で、番外編として
論文を書くとは、世の中になんらかの新しい主張をもたらし、それを説得的に論証することで、人びとの考えを変えようとする行為にほかならない
これは、論文の書き方のハウツー本というよりは、最後の2章は是非読むべきだと思える。
最初の動機はハウツーに惹かれてどう論文を書き進めるかという小さい要因から手にした本だけれど、実は最後の2章にこの本を読んでよかったと思える所に出会ったという。。。そういうオチ(?)がある本。確かに新しい教科書である。
さて、今日はこの辺で。