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じいじ 保育士を目指す! 逆進性

今朝は

 ちょっと思う事を。

 昨今の保育無償化の件。noteでも、色々と記事を見るが、まず第一に、公平性が保たれているのか?という点で問題あると考える。

 そもそも、公教育が無償化する事に私は何も異論はない。前提は、望む者は誰でも入れる仕組み、つまり選抜システムをやめればいいと考えているからだ。

 公教育は、その国の資産であり、誰もがアクセス可能である事が前提としてなければいけない。従って、望む者には、門を閉ざす必要はない。ただし、門をくぐっても、学ばない者に卒業資格を与える必要はない。この原則が有れば公教育は、選抜システムなどいらない。もっと言えば、有期の学業期間内に卒業できない者も同様に、在学させる必要はない。生涯学び続ける機会を保障する事とは別の問題だ。

 そういう意味で、公教育の無償化は大学等の高等教育機関も含めて、保育園から大学院まで無償化でいいと考えている。未来を作る子ども達が、この国の宝だから(別件だが、無償化なら出産費用自体も無償化すれば良い。この話しは別の機会に)。

 だとすれば、私学への助成はどうか?という問題だ。私の前提は、公教育は、望む者へのアクセス(入学)権の保障だから、公教育を望まない者の自由を奪う事も望まない。従って、私学への選択権は保障されるべきだと考える。そういう意味で、公教育のアクセス可能となる現実的な移行期間での私学助成に関しても反対はしない。暫定措置として、私学助成は有りだと考える。

 しかし、そこには重要な前提がある。つまり、「所得に応じて」という部分を外してはいけないという点だ。税制のテクニカルな部分で煩雑だとかの議論をするならば、所得税の逆進性をきちんと正して、累進性を高める事で済む話だ。その点を無視して、所得が高い層に一律の学費保障をすれば、その学費補助の余剰分はどうなるか?という点を考える必要がある。

 つまり、払える所得がある者が、その払える学費という余剰分がどうなるか?という議論をしない無責任な措置は、所得の逆進性を高める事と同時に、格差を助長するだけだと考えるからだ。

 高額の学費を払って、私学の特別な教育(本当に教育なのかという問題はここでは保留する)を受けさせるという事の他に、受験という競争への無用なコスト(未来の子ども達にとっての不要な負荷)を余剰になったマネーが流れ込んで、今現在行われている東大の様な保護者の所得区分(年収区分の分布状況)を生み出すだけだと考えるからだ。

 公教育がフルオープンになって、公教育の質を担保された状態になる移行期間では、上記の問題は時限的に発生する。しかし、これはあくまで短期的な問題だ。

 重要なのは、この公教育が「誰でもアクセス可能である」状態でない場合だ。受験競争の加熱と、入学希望者の不均衡性による過度な選択の偏りによる教育機関の統廃合と公教育という根幹の存続事態が脅かされるという点だ。

 初めに書いた通り、公教育は国の資産であり、子ども達にとっての砦であり、未来を保障する仕組み(システム)である。その大切な「誰でもアクセス可能である」という礎を壊してしまえば、「失われた30年」とかそういうレベルを超えて国の存続のレベルで、重大な問題を生む事になる。つまり、教育システムとは短期的なスパンでは計れないという意味で、中長期的ダメージを与えるモノだという事を考える必要がある。

 誰にとっての無償化なのか?短絡的思考ではない熟慮が必要な問題が、ポピュリズムによって破壊される実例というべきか。

さて、今日はこの辺で。

追伸
乗り継ぎ成功。
富士山が見えた。

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