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じいじ 保育士を目指す! 公教育の選抜システム廃止

 ある講義で

を使った講義。内容は教育学系だけど、これの最終章のレジメをおこなった。結局、著者の言いたい事は、再帰性という社会学的キーワードを使って、その学歴や偏差値という指標の危うさや不安定性や自己反省や自己言及という絶えず自身の批判と変革やそういう運動を繰り返し続けるという収束しない社会運動、構造を持った存在で、グローバル化した時代に於いて、その教育システムを何処かの方向に全部が向かう事の危険を指摘していた。

 そこで、論点として「公教育は選抜システムをやめて、全ての望む者へ無償で教育機会を与えるべき」として社会はどうなるか?と問うてみた。

 これは、「解放の保育学」が目指す公教育システムの転換という意味で一つの大きな方向性とコペルニクス的転回というべき教育の転換をこれからの未来を支える子ども達への現在世代の贈り物としてはどうかというものだ。

 解放の保育学は、保育の世界から公教育全般、そして教育、社会を変える事を目指す学的ムーブメントと考えている。

 大学院は議論をする場であるから、どういう議論になるかと楽しみにしていたが、選択システムを撤廃する事に賛成の人はいなかった。

 この講義の外部教員は東京大学の教員だから、「うちの大学の研究力が下がってしまうだけ、きっと私立の慶應や早稲田がとって代わって、その格差(結局、学歴主義とエリート化)がさらに激化するだけ」というコメントだった。

 そもそも、研究能力の有無と学力レベルの話しをしていたが、要するに理系の数学的能力やその学力と英語運用能力がなければ、研究は動かせないというものだった。でも、英語は機械翻訳でどうにでもなると言っていたのは当の本人だった。

 結局、学力と称するのは英語というラテン語が中世大学の指標だったモノと変わらず、選抜システムの能力指標の一つとしてみているのが本音だとわかった。

 私から言えば、その子どもの能力は、まず何を学びたいか、そしてどういう方法で学んできたか、どう自身の最適な学びと、最後はその自身の独創性と学びと未開の地に向かう、切り開く力がある事であって、そのオリジナリティをどう活かすかだと思う。

 論文の中身が重要なのであって、英語論文を書けるかどうかではなく、その学問領域で如何に実質的なインパクトを持っているかではないだろうか?

 英語運用能力ではなく、中身が世界の先端を行くか、どう独創性を持っているのか、そして多様な学びの結実として多層的で多様性を持った学問世界が生まれるのだと信じている。

 そこを支えるのが公教育であり、そういう子ども達の可能性とその機会を与えるのが「解放の保育学」の仕事だと考えている。

 如何に、学問が限られた一部の人間だけのモノから、大きく開かれた場所であり、学ぶ学びを生み出す力を備えた者が作りあげるモノに変えるか、それがこの国の最後のチャンス(転換点)だと考えている。

 理想ではなく、そういうテクノロジーが前提にある知識社会はすでに世界を動かしているはずだからだ。

さて、今日はこの辺で。

追伸

今朝は、富士山がくっきり見えた。

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