まぐろのさしみ(後編下)
暑かったせいで布団はかけておらず、頭の上にいっぱいに延ばした右手は、ベッドの宮棚に置かれた黒電話に届いていなかった。左手は裸の胸をつかむようにして足はもがいたのだろうか「い」の字に開き、上を向いた顔は顎が上がり、目も口も少し開いた表情は苦痛にゆがんでいた。
おそらく夜間、激しい息苦しさに胸をかきむしり、気道をまっすぐ伸ばして途切れていく酸素を必死で吸おうとしたのだろう。
壮絶な恐怖が襲い死期を覚悟した時に、電話の場所に腕を伸ばしたのに違いなかった。遠方に娘がいると聞いていた。電話に手が届けばその娘に別れを言いたかったのか、それとも救急隊に助けを求めたかったのか。
吉野みちるはその場に立ち尽くした。時間にしたらほんの数秒だったと思う。我に返ると事業所に詳細な連絡を行い指示を待った。
「交代しますのでそれまで居てください」との返事。上司から連絡が行ったものと思われ、しばらくして警察車両と救急車のサイレンの音が近づき、ひと足早く上司が駆けつけてきた。すぐさま交代し、後に何も残さないように身の回りを片づけて退室した。
ホームヘルパーには時間刻みで次の訪問予定が決まっている。介護を待っている人はヘルパーが来ないと生活が滞るため、こういう場合は上司が入れ替わり対応する。警察が関わると何時間もその場から動けなくなるからだ。
その後一週間ほど経ったころか、遠方の娘から「担当のヘルパーさんに最後の状況を聞きたい、お礼も言いたいので電話をつないでほしい」との希望があったことを上司から聞いた。
利用者の家族とヘルパーが接触することを好まない風潮のなかで、上司は電話をつないでくれた。
このシチュエーションで「こんにちは」や「お世話になります」は的外れな気がする。「何を話せばよいのだろう」と漠然とした不安と緊張でみちるは受話器を取った。
電話の向こうから穏やかな女性の声が聞こえてきた。それが、溜郷芳人の面影に繋がり、みちるは涙がこみ上げそうになる。
わけの分からない興奮が押し寄せてきて、みちるは最後の「時」を克明に伝えてしまった。食べさせてやれなかった心残りのまぐろのさしみのことも。
父親の最後を看取れず、大きな悔いを抱えて思慕の思いをどうしようもなくせめて父の傍にいた人から話を聞きたいと電話をつないだ娘にである。
実際にみていない分、娘の頭の中にはどれほど父の姿が悲惨に描かれたろうか。
受話器に手を伸ばして届かなかった父の無念を、言葉に尽くせず苦しんだろう左手を、娘はどれほど心に痛く感じたろうか。
一気に説明するみちるの言葉に一瞬、娘は絶句した。間を置いてゆっくりとお礼の言葉があった。
受話器を置いて、なにか失敗をしたのではないかと思った。そしてそれは時間が経つほどに、大きな失敗をしたのだと気づくことになる。
みちるはやりなおしのきかない大きな失敗を抱えて、本気で支援者の道を進もうと心に決めた。