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介護に求めるもの(前編)
介護施設に入所している方だが、住宅型のためケアマネジャーの音無茜が担当し毎月の訪問をする。在宅から担当していた男性で、学者を退任したのちは好きな研究をつづけながら、良妻賢母の妻をこよなく愛し暮らしていた紳士だった。
支援者や近隣の人からも「先生」と呼ばれるようになっていた。しかし認知症は残酷にもその人の人格を変え、どんなときにも大切にしてきた妻に暴言を吐くようになり、妻は逡巡し、葛藤のすえ施設入居を決めたのだった。
認知症状が動かないならあきらめもつくのだろうが、なにより辛かったのは、時々ふだんの優しい夫に戻ることだった。見ていて痛々しく茜も入所をすすめたのだった。
決して便利とは言えない施設に、妻は毎日通ってきた。バスを乗り継ぎ、時間帯が合わない時はタクシーを使って。
「家に帰りたい、ここには居たくない」という意思はもう残っていなかった。ただ妻の顔を見ると穏やかな表情を見せていた。
入所して数カ月ですでに暴言を吐くことはなくなり、介護の負担は減ったが、それは明らかに認知症の進行を意味していた。
定期訪問のある日、彼が聞き逃すほどの小さな声で何かをつぶやいていることに気がついた。そっと耳を寄せると「順番、じゅんばん」目を閉じて身じろぎもせず、つぶやいている。全く意味が分からなかったが何かに耐えているような表情に見えていた。
そのことが気になり、何度か彼を訪ねるたびに同じつぶやきを聞いたとき、突然「あ!」と気がついたのだ。
もしや、あの世に行く順番をまっているのではないのか?!
そのことに気がついた茜は、胸が苦しくなる思いに駆られ先生に声をかけることもできずに施設を出た。
希望をなくしているのは明らかだった。急激な速さで認知症は進行し、やがて自分で手足を動かすことも叶わず、発語もほとんどなくなった。
そのころにはスタッフたちが陽気に先生に声をかけ「だめだめ、あの世は混んでるの、未だ行けないよー」と笑いに変え、先生と妻もまたそれに笑顔で答えているのだった。
茜はスタッフの強さに驚くと同時にとても感謝をした。
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