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調査から始まる介護生活(前編)

「お父さん、今日は認定調査の方がみえますから、お部屋を片づけてくださいね」
根岸亜沙子は義父の耕太郎に声をかける。

ほんとうは亜沙子が片付けてしまえば早いのだが、気難しい耕太郎は自分の部屋を触らせようとしないのだった。

介護保険の申請にも主治医から話をしてもらい、やっとのことで調査までこぎつけた。90歳を過ぎて、身の回りのことが自分で出来なくなって来たからだった。

「要支援でもいただければ御の字」と亜沙子は思っている。家事は亜沙子でしてやれるので、移動が楽になるように部屋の中に手すりを付けたり、歩行器などの福祉用具を借りることが目的だった。

さらに週に一回でもデイサービスに行ってもらえれば、亜沙子にとってこんな解放感はないと思うのだが、頑固な耕太郎がデイに行ってくれるはずはない、と亜沙子はあきらめている。

しばらくして義父の部屋をのぞくと、耕太郎は背広上下を身につけ、かしこまって椅子に座っていた。顔を見ると顎を中心に何か所も血がにじんでいた。

また、剃刀でひげをそったのに違いない。どれほど使いやすい電動剃刀を買って与えても、ここという時には剃刀を使うのだった。

昔からの習慣なのだろう、剃刀のほうがきれいにそれると信じていた。

時間通りにチャイムが鳴る。女性の認定調査員が立っていた。私と同じくらいの年齢だろうか、と亜沙子は思いながら、義父の部屋に案内した。

調査員はお行儀よく義父の正面に座ると、見上げるようにして名札を示し調査員の挨拶をした。

なぜ調査をするのか、聞き取りをする項目から、所要時間に至るまで簡潔にゆっくりかつ、はきはきと説明をする。

申請書に記載しておいたことが良かったかもしれない。難聴が気になってきた耕太郎に、聞き取れるように話をしてくれているのがわかった。

「まず、お名前と年齢を教えてください」と調査員が言うと、間髪入れずに耕太郎が答える。だが、年齢を70歳と答えた。

調査員は、一瞬間をおいて「70歳ですか?」と聞き返す。すると再度、耕太郎は自信満々に「そうです。70歳になりました」と答えた。

調査員は事前に調べているアセスメントシートと照らし合わせながら、顔色一つ変えず、否定もせず質問を続ける。

「今日は何月何日ですか?」通常なら十分失礼に値する質問だが、義父が年齢を間違えたことで、認知の状況をさらに確認しているようだ。

耕太郎が考え込んでいると
「今の季節はなんですか?」と調査員は質問を変えた。
義父はもう正月が来ようとしているというのに「春」と答えた。

思わず亜沙子の方が焦ってしまい「お義父さん、もう、12月に入りましたよね」と口をはさんでしまった。

調査員は亜沙子に「大丈夫ですから」というように目で合図をすると、平然と調査を継続していく。

「では、100から7を引いてください」と言われた耕太郎は、目を見開き大きく息を吸い込むと「私は数学の教師をしていました。そんな問題はとても失礼だとは思わんかね」
と、憮然と答えたのだった。


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まる風太
チップ応援をいただいたことは一度もありません。予想もつきませんが、うれしいのでしょうか。責任が重くなりそうですが、きっとうれしいのでしょうね。