短編小説/今
「今日は相手してあげないからね」
図書館で会った彼女はほんの少し口唇を尖らせた。本を読みたいって言ってるのに僕が無理やり約束を取り付けたせいだ。
「いいよ読んでて。隣でおとなしくしてるから」
「じゃあいなくていいじゃない。なんで来たのよ」
「見たい本があったから」
「本なんて読まないくせに。私の邪魔しないでよね」
はーいと返事して、彼女のあとを着いて行く。わざと怒らせるのが楽しい。怒ってる顔が好きだから。もっと言えばちゃんと怒ってくれんのが可愛い。気持ちを上手に出すのが苦手な彼女が僕には素直になれる。そいでもって1分も経たないうちに「今日の朝さ、サンドイッチ作ったんだあ」とすぐに直るとこがまたいい。
彼女はまず新刊のコーナーからゆっくり見て回る。そして「この本読みたかったのにやっぱり貸し出し中かあ、人気だもんね」「この人の読んだことないんだけど、面白いのかなあ?」と棚の前でずっと喋ってる。土曜日の図書館は人が多いから、僕らがいつものトーンで話してても迷惑にはならない。児童書コーナーでたむろしてるママ友に比べたら、僕らなんか動物園のカピバラぐらい寡黙だ。手本にならない母親の真似して「もっと静かにしなさいよ」と彼女の耳元で言うと、くすくす笑いながら「そっちこそ」と肘鉄して
おやつ買ってあげないよ、と付け加えた。僕はもう一度はーいと返事した。
あんまり邪魔しても悪いので、彼女が本を選んでる間は離れた場所で美術書を見ていた。僕はガラス職人で、四年前に地元で工房を構えた。彼女は最初の個展で友人の友人で見に来てくれたのが出会いで、控えめでか弱そうだけど、孤島に真っ直ぐ聳える木みたいな、笑ってても他の誰とも交わらない、任せられた孤独をしっかり引き受けてる固く張った根を感じさせた。一方で少し引っ掻いただけで木肌が全部剥がれてしまう脆さも併せ持っていて、どちらに転ぶか分からない危なげなところが魅力的だった。作家を目指してる彼女を支えてる根幹でもあるが、あっという間に自信を失って自暴自棄になる繊細さと、僕の意見に絶対に従わない、譲らない強情さに時々手を焼くけど、乱高下するバイオリズムに振り回されるのも、案外楽しかったりする。
四冊本を抱えてきた彼女は「お静かにね」とテーブルに置いて僕に言った。
ルネ・マルグリットの画集を横で広げながら、人差し指を口に当てて、しいとやると、二度目のエルボーを頂いた。
しばらく黙ってそれぞれページをめくっていたが、やがて周りに座っていた人達が一人ずつ席を立っていった。薄暗い日差しのテーブルには二人だけ。
頬杖を付いて髪を抑えてる彼女の指の朱色のマニキュアが冴える。
「今陽色だね」
僕は指先を軽く顎で差した。え?と彼女は手を翳した。
「何色って言ったの?」
「いまよういろ。紅梅よりは濃い淡い紅色で、平安時代には流行ってた色だったらしいよ。光源氏が妻の紫のうえに今陽色の衣装を贈っていたことで、流行りの色として、紅花で染めた赤色が王朝の女性に好まれて後世にまで残ったって。昨日色図鑑見てて、ちょうど同じ色だなって」
僕はテーブルに降りてきた紅梅の咲いた白い手を握った。
ちょっと、と彼女は吹き出しながら身をよじった。
「綺麗に塗れたから会ってくれたんでしょ?」
彼女は照れながらつんけんした。爪が綺麗だと機嫌がいいから分かる。
「似合うよ」
それでじゃじゃ馬も大人しくなる。僕の手に収まる今陽色の蕾。
「明日から執筆邪魔しないから。気晴らししたくなったら連絡して」
うん。彼女は歯を噛みながら頷いた。物憂げないつもの優しい瞳で。
この手が僕だけのものなのは、彼女が作家になるまでかもしれない。
プロになったら本当に足手まといになるのかも。
そうならないようにまあ気を付けようとは思ってるけど
僕のために色付いたこの手を今はしっかり掴んでおこう。