見出し画像

【連載小説:盛岡】 十八のモラトリアムの三月に (4)最終回

7   USBメモリ

 私が目を覚ましたのは、数日前に灯野君がいた、アパートの目の前の県立中央病院だった。点滴と輸血をしている。集中治療室じゃなくて、ナースステーションの近くの普通の個室だ。輝ノ実が点滴している手を握ってくれている。
 「美園、大丈夫だよ」
 輝ノ実が優しく声を掛けてくれた。
 「すいかの病院で応急措置してもらって、救急車でここに来たの」
 「そっか」
 「運が良かったって。ここの先生が。内臓には達してなかったけど、出血が酷かったから。ほら、あの病院、リストカットとかの応急処置に慣れているから」
 「恵利佳ちゃんは?」
 「警察に」
 「可愛そう」
 「仕方ないよ」
 「うん」
 「勝手に携帯電話を使わせてもらって、ご両親にも電話したよ。もうすぐ来ると思う」
 「ありがとう」
 私は、はっきりとしない頭の中で、輝ノ実にこれまで以上の親愛を感じていた。
 「私のバッグ」
 「ここにあるよ」
 輝ノ実が私のピンクのチェック柄でエナメル製のショルダーバックを持ち上げて見せてくれた。
 「そこにラッピングした水色の小さい箱がある」
 「バッグ開けるよ」
 「うん」
 「あった。可愛い。灯野に?」
 「最初はね。でもそれは輝ノ実への誕生日プレゼント」
 今日は4月30日。輝ノ実の誕生日だった。
 「でも、灯野に買ったんでしょ」
 「いいの。たぶんこれは灯野君へのプレゼントにもなると思う」
 「意味が解らない」
 「開けてみて」
 「いいの?」
 「うん」
 輝ノ実はピンクのリボンをほどくと、夕べ私が包みなおした水色の包装紙を丁寧に剥がし、箱を開けた。
 「綺麗。十字架だ。何これ?」
 「USBメモリ」
 「高そうだよ」
 「いいの。それより、それにはもうデータが入ってる」
 「えっ?」
 「読んでみて」
 「読む?手紙とか?」
 「違う。開けば解る」
 「うん。なんだかよく解らないけどありがとう」
 「輝ノ実」
 「何?」
 「輝ノ実に会えて良かった」
 「何よそれ」
 「岩手大学に入って良かった。盛岡に来て良かった」
 「こんな目に遭ってるくせに」
 「不思議だね、人間って。好きなのに憎くなったり、何とも思っていなかったのに急に恋しくなったり。今はね、恵利佳ちゃんも愛おしい」
 「美園は凄いよ」
 「そんなことない。輝ノ実には敵わない。だって私が今こんなことを思って話せるのは、輝ノ実のお陰だもん。それにみんなのお陰。すんごく濃い時間」
 「何しんみりしてんの」
 輝ノ実が私の頬を人差指で押した時、お父さんとお母さんが来た。お父さんの方が少しだけ取り乱していた。間もなく警察官も来た。お父さんとお母さん同伴で事情聴取が始まりそうになったので、輝ノ実は、
 「それじゃあ、また明日来るね。USB楽しみ」
 と言って帰って行った。
 私は事情聴取なんか上の空で、あの小説を読んでいる輝ノ実を想像していた。

8 惜春

 盛岡市の西北部、岩手県営運動公園内の野球場は桜の新緑で覆われていた。若葉の黄緑の煌めきは、今の私の気持ちを表しているようだった。観客席はただの土手で、バックスクリーンもスコアボードも外野の芝生もないグラウンドだったけど私は満足だった。
 ユニフォーム姿の灯野君がブルペンで辰則君とキャッチボールをしている。辰則君と康平君もユニフォームを着ている。記子ちゃんや美佳ちゃんも来てくれた。私が呼んだのだ。
 高校時代の練習着らしいユニフォーム姿の灯野君は、さすが去年まで高校球児だっただけあって似合っていた。
 記子ちゃんたちが先に座っていた1塁側の木製のベンチに、私と輝ノ実が座ったのを見て、灯野君たちがキャッチボールを一旦止めて来た。
 「約束、守ったよ」
 灯野君が笑顔で私に言った。
 「灯野君かっこいい」
 私は今までになく親しげに言った。
 「そうか?」
 「灯野、やっぱり似合うよ」
 輝ノ実の言い方は、どことなく以前と違った。あれから2人の間に何らかのやりとりがあったのだろう。言い方から想像すると、いい方向に向かっているようだ。
 「恵利佳ちゃん、どうなったかな」
 私はただ1つ心に引っ掛かっていたことを灯野君に訊いた。
 「今は家庭裁判所の措置で、どこかの精神病院か少年鑑別所じゃないかな。いろいろ検査するらしい。正確なことは分からないけど、警察が事情聴取に来たから逆に訊いてみたらそう言ってた。大丈夫だよ。美園ちゃんに言うのもなんだけど、あの子は根はいい子だ」
 「そうだね。本当にいい子だもんね」
 私は心からそう思っていた。事件は怖かったけど、恵利佳ちゃんは不思議と怖くなかった。
 「そういえば美園、ゼミのレポート書いた?『大学生活に望むもの』」
 輝ノ実が訊いてきた。私は小さく首を横に振った。
 「えっ、これから?10枚以上だよ。ゴールデンウィーク明けが締め切り」
 「私、辞めるの」
 「えっ」
 みんなの驚いた声が僅かにハモった。
 「辞めるって何を?」
 灯野君が訊いた。
 「大学」
 「何で?」
 輝ノ実は泣きそうな顔をして訊いた。
 「目標が無いの」
 「それは私のせい?」
 輝ノ実の言ったことの意味が私と灯野君以外には解らないようだった。
 「そんなことない。もともと無かったの。もともと間違ってたの。それが凄い間違いだって気付いたの。みんなのお陰で」
 「何が間違いだったの?」
 今度は灯野君が訊いてきた。
 「私は大学生活をモラトリアムだと思っていた。自由に時間を過ごしながらゆっくりと将来のことを考えればいいって。もちろんそれでいい人もいると思う。でもね、私は生き抜いていく準備をしたい。きっと生き抜くって大変なんだよ。それを灯野君に教わった」
 「俺に?」
 「灯野君が病気と闘いながら、道に迷いながらも必死に生きる道を探している姿に」
 「俺は何もしてないよ」
 「ううん。あの小説。感動したし、驚いた。なんであの状態であれが書けるの?前に向かうために必死に書いたんでしょ?私にはそれが解った。だからあれを輝ノ実に渡した。灯野君が前に進めるように」
 灯野君は、見たことが無いような真面目な顔で、首を縦にも横にも振らなかった。

 「夕闇の長い廊下の奥の灯を
  睨めど見えぬ
  卒業の先」

 私は誰に向かってということなく、灯野君の歌を諳んじた。
 「光を睨んで生きて行きたい。例え周りが暗闇でも。灯野君や恵利佳ちゃんのように」
 「それほどの歌じゃないって」
 灯野君が困ったように言った。
 「小説って?」
 辰則君が訊いてきた。
 「書いたんだ。6月末締め切りの新人賞に応募する」
 「へえ。どんな小説だ?恋愛か?ミステリーか?」
 今度は康平君が少しからかうように訊いた。
 「絶対に新人賞を獲るからそれまでのお楽しみ」
 私が助け船を出した。
 「大学を辞めるって、親は?」
 輝ノ実が話を戻した。
 「この前の事件のせいで、お父さんは帰って来いって」
 「そりゃそうかもね」
 記子ちゃんが大袈裟に頷いた。
「あの子だって、いつか盛岡に帰って来るだろうから、美園ちゃんは危ないし、親にしたら当然心配だもんな」
康平君も納得顔で言った。
 「来年、また大学を受けるってこと?」
 美佳ちゃんの口調はいつも優しい。
 「うん。1年間頑張って上智の文学部を目指す。作家でもある憧れの教授がいるんだ。私は才能がないから大学でいっぱい勉強をしなきゃ。私もね、小説を書きたくなったの。灯野君に負けないような」
 灯野君は微笑んでいた。輝ノ実も優しい目をして私を見ていた。
 「おい、来てやったぞ!」
 来たことに誰も気付かないことに腹を立てて、光太郎が大声で言った。
 「もう1人未来を睨んでる奴が来た。我らが天敵、奥州福祉大学野球部の田村光太郎君です」
 「どんな紹介の仕方だよ。ども」
 光太郎は急に恐縮して帽子を取った。光太郎もユニフォーム姿だ。私が頼んだ。
 灯野君、辰則君、康平君も帽子を取って「オス」と言った。光太郎には、大学を辞めて東京に帰ることを後で話そうと思った。今、光太郎のモチベーションを下げるわけには行かない。光太郎はきっと大丈夫。「野球」があるし「保育士」っていう夢もある。それに光太郎が帰京すればいつでも会える。
 「それじゃあやるか!」
 灯野君が聞いたことがないような大きな声を出した。私が仕組んだ小さなイベントを成功させようと頑張ってくれているのが解ってジンと来た。すると灯野君はユニフォームの胸元に手を入れて、ネックレスを私に見せた。チェーンの先にはあの十字架のUSBメモリがあった。私は隣にいた輝ノ実の手を握って、泣きそうな声になりながら言った。
 「幸せにね」
 「うん」
 マウンドの灯野君は、辰則君相手に5球投球練習をした。
 「いい音させてんじゃん。どれどれ。盛岡西高のエースはどんなもんかな」
 光太郎がミットを叩きながら、辰則君と代わってキャッチャーボックスに入る。灯野君は振りかぶって高く左足を上げ「うっ」と声を上げてボールを投げ込んだ。光太郎は捕ってからしばらくミットを動かさなかった。
 「マジで去年の夏から投げてないのか?135キロは出てるぞ」
 「135は大袈裟だろ。せいぜい130だ」
 「いや、もっと出てる。もう1球」
 光太郎が灯野君にボールを返す。ボールを受け捕ってマウンドを足でならす灯野君に数日前までの入院していた面影は全く無い。そしてもう1球投げ込む。光太郎のミットの位置はさっきと同じだ。
 私は幸せな気分でいっぱいだった。輝ノ実に出会った2か月半前から今日まで、私が生きてきた18年よりも「たくさん生きた」気がした。その2か月半で出会った私の大切な人たちが私のために1堂に会している。みんなみんな素敵な人たちばかりだ。何より、憧れだった灯野君が生き生きとしている。私は自己満足かも知れないけど、ほんのちょっぴりでもあれ程憧れた人の役に立ったんだ。

「よごれたる手を洗ひし時の
 かすかなる満足が
 今日の満足なりき」

 啄木の歌で言えばこんな気持ちだ。
 私が盛岡に来た意味はあった。そしてこれで思い残すことは何も無い。
 「バットある?」
 光太郎がベンチの近くにいた辰則君に言った。
 「そうなると思ってたよ」
 辰則君はそう言うとマスクとバットを持って、康平君はマスクを持ってバッターボックスに近付いた。灯野君もマウンドを降りて近付く。4人で何やら話をしている。
 「よし、1打席だけの勝負だ!」
 光太郎は素振りをしながら大声を出す。灯野君はもう1度マウンドへ。辰則君がマスクを被ってキャッチャーに。康平君もマスクを被って審判の位置に着き、さらにピッチャーに向かって右手を伸ばすと「プレイ!」と言った。
 「岩崎美園は俺のもんだ!」
 光太郎がバットの先を灯野君に向ける。輝ノ実たちが私を冷やかすような目で見る。灯野君は、1言2言、右手の中のボールに何かを話しかけた。そして振りかぶって辰則君のミットめがけ、ボールを投げ込む。ボールはさっきより1段と速く見えた。
 「コン!」

「マウンドの
  君がボールに祈るとき
  私は同じ青春にいた」     

(了)


2010年ソニー・デジタルエンタテインメントより発行 iBooks、Kindle、コミックシーモア等から配信 2023年改訂 
現在の著作権は著者に帰属

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?