ドラマ「何かおかしい」花岡さんの人間性について考察・分析(前編)

ネタバレあります。

ドラマ「何かおかしい」主人公の花岡さんの人間性について考察していきます。

「何かおかしい」は普通に見える人の恐ろしさが毎回違った角度から描かれていて、いつも新鮮な気持ちで観ていました。だんだんラジオ局内の雰囲気もおかしくなってくるのも見所で、中でも主人公の花岡さんのずれた価値観、崩壊した倫理観に惹きつけられました。

これまで各話の事件について考察記事を書いてきましたが、今回は主人公の花岡さんに注目し、人間性や行動の背後にあるものを考えていきたいと思います。

☆花岡さんの情報
まずは考察の基礎となる情報をまとめます。

〈公式サイト情報 →  https://www.tv-tokyo.co.jp/nanikaokashii/ 〉
・ラジオ番組「オビナマワイド」構成作家

〈ドラマ本編より〉
・フリーランス
・大阪出身
・喫煙者
・メールアドレスに「omoroikotoshitai(おもろいことしたい)」と入っている。(アドレス入力しようとしたら何故かエラーが起きました……)

〈花岡さんを演じた俳優さんのインタビュー → https://plus.paravi.jp/entertainment/011608.html 〉
・頭が良すぎてどんどんエスカレートしていく部分がある
・いろいろな番組を持っている
・オビナマワイドにはそこまで力を入れていない
・構成作家として、番組さえ面白くなればそれでいい

〈花岡さんを演じた俳優さんのインタビューその2 → https://withonline.jp/people/ent-encounter/TqT9j 〉
・バラエティ番組から動画配信サイトまで、多くの番組を手掛けている
・オビナマワイドにはあまり重きを置いていない
・賢くて悪い人

頭良い設定イイですね。あと面白いをオモロいと言うのは関西弁の名残りでしょうか。最終話の晒しツイートで「人気者気取り」とか書かれてましたけど、割と仕事ぶりを評価されているみたいですね。

◯花岡さんにとっての面白さとは
花岡さんを語る上で欠かせないのは面白さ至上主義的価値観ですよね。番組さえ面白くなればそれでいい。でも、何を以って面白い/つまらないを判断するのでしょうか。

番組は視聴者やリスナーのために作られています。花岡さんもリスナーに面白がってもらおうとしているのでしょうか? どうもそうではなさそうです。

花岡さんは番組中のアクシデントを楽しみ、最後の方では積極的に事故を狙いにいこうとすらしています。確かにハプニングは面白い。ドラマ「何かおかしい」の感想ツイートでも、スタジオでの言い合いやオビナマの崩壊を面白がるコメントを多く見かけます。

でも私たちが「何かおかしい」を楽しめたのはあくまでドラマだからです。本当のラジオ局崩壊に立ち会ってしまったら? リポーターが行方不明になった責任の擦り付け合いを聞いてしまったら? ラジオからいきなり殺人の様子が流れてきたら? 楽しむどころではないのでは。

実際、花岡さんが面白がっていた小野寺ちゃん行方不明の責任転嫁合戦はひどいバッシングを受けました。逆に静香さんと夏南ちゃんの感動の再会の時、リスナーは感動に包まれていましたが、賞賛ツイートを眺める花岡さんは随分と白けた様子でした。

花岡さんは最大多数の幸福に奉仕している訳ではないようです。また、花岡さんと一般人の面白さの感覚もズレています。かといって一般人ウケするものを理解していない訳ではないと推測されます。それがわからなければ構成作家としてやっていけません。

人間には必ずあるという醜い部分、他人の不幸や悪趣味なものを喜ぶ心性を善良な市民に突き付けてやる意図もなさそうです。誰しも嫌な面と向き合うことは苦痛であり、蒙を啓くことを目的とするなら作りたいのは「面白い」番組ではなく「タメになる」番組となるはず。

自分と似た感性の持ち主をターゲットにしているのでしょうか。この世は広いですから同好の士は探せば見つかります。どんな趣味でもそうだと仮定すると、ちょっと話がねじれてきます。この場合、花岡さんが自分の面白いと思うものを作れば良い。制作過程で相手のことを考えずとも、同じ趣味の相手なら提供されたものを喜んでくれる。究極的には、花岡さんは自分の感覚にだけ従っていれば良い。と、すると自分自身のために番組を作るのと何が違うだろう。

関連して、第6話で気になるシーンがあります。煽りツイートを止められた花岡さんが五十嵐さんに言い返すところ。花岡さんは市長刺殺や弁護士妻子轢殺、リポーター失踪といったこれまでの事故を挙げ、自分たちが面白がって放送したから起きたことだと指摘します。

ですがそれらの回を見返すと、面白がっているのは花岡さん一人です(復讐の当事者だった佐倉さんや岡田さんは除きます)。五十嵐さんたちは違和感に気づかなかったり、スルーしたりしてしまっただけ。否、気づいて軌道修正しようとしていたこともあります。

相手に反論の余地を与えないことは口喧嘩の鉄則です。第6話で花岡さんは五十嵐さんにだいぶ散々なことを言っていますが、喋り方も内容も整然としています。正直、この人とは絶対に言い争いをしたくないです。だからさっきの台詞が引っ掛かります。「面白がっていたのはお前だけだろ!」五十嵐さんに切り返されたらどうするつもりだったのでしょう。

五十嵐さんは言われっ放しという性格ではありません。だから花岡さんが上記のような切り返しをされないと考えていたとすれば、それは先の台詞の内容を信じていた場合。つまり花岡さんは本当に他のスタッフも面白がっていると思っていた。自己投影です。

自己投影をキーワードとすると、誰のために面白い番組を作っているのかという疑問に答えが出せます。結局、花岡さんは自身のために自分が面白いと考える番組を作っている。

でも、自分自身を楽しませたいなら番組を媒体とせずとも私生活を充実させれば良いはす。なぜ番組を作るという行為に執着するのか。ここで番組は視聴者及びリスナーのためにあるということを思い出します。花岡さんの中には作り手と受け手の2種類の自分がいて、作り手(構成作家)としての花岡さんが受け手(リスナー、視聴者)としての自分のために面白い番組を作ろうとしているのではないでしょうか。

「面白い番組を作りたい」「自分と世間の感性はズレていると自覚している」「自分の感覚に従って番組を作ろうとしている」。この3つの事柄は、上の仮定によって矛盾なく成立します。

◯なぜ構成作家になったのか
作り手の自分は、受け手の自分がいて初めて存在意義を持ちます。つまり面白い番組への欲求を満たすべく、自ら作る道へ進んだ。

なぜ面白い「番組」を求めるのでしょう。面白い現実では駄目なのでしょうか。

番組と日常を比較すると、圧倒的に番組の方がワクワクドキドキできます。ドラマやアニメはフィクションなので割と何でもアリ。バラエティには奇抜な人物や事柄が次々と登場し、お喋り上手やリアクションの巧者が場を盛り上げます。ドキュメンタリーだって特別な誰かの特別な瞬間を切り貼りして一本の作品に仕上げている。対する現実はなんて貧弱でしょう。目を楽しませ耳を驚かし心を躍らせ血を沸かせるような出来事と、一年に何度出会えるでしょうか。

何もない日々が幸せ。そんな悟りを開く人もいます。ですが自己の優秀さを知り、若さというエネルギーを持て余す人間が精神的清貧とも呼ぶべき生活に甘んずることができるでしょうか。

花岡さんにとって、現実はつまらなかった。現実の対義語は空想、仮想。いつしかフィクションの世界に惹きつけられた。きっとそこに活路を見出したのでしょう。それが高じて業界を志すようになった。メールアドレスに「おもろいことしたい」と入れるくらいですから、よっぽど普通の日常が退屈なんでしょうね。

中でも構成作家を選んだのは、番組の内容決定に深く関わることができるからだと考えられます。番組の企画を担うのが構成作家だそうです(ネットの付け焼き刃知識)。プロデューサーやディレクターは根本のコンセプトから思い通りにできますが、雑事も多いので避けたのでは。フリーランスを選んだのは組織のしがらみなく興味ある仕事を自由に受けられるようにするためと思われます。

それでは、本編での花岡さんを追っていきます(手前の話が長すぎる)。

①第1話「おしゃべり人形」
虚構の中の人間が現実の力と初めて出会った回だと捉えています。

この回の花岡さんはかなりまともです。放送中はそつなく業務をこなし、表情は真顔か愛想笑い。お面をつけた奇妙な人たちに気づいた時も、ちょっと不思議そうにディレクターの五十嵐さんに報告しています。

「何かおかしい」は番組表巡回中に見つけて録画したドラマで前知識ゼロだったので、白状すると見終わって検索するまで花岡さんが主役だと気づきませんでした。そのレベルで仕事ぶりや違和感への反応が普通に見えました。

オビナマワイドはあまり力を入れていない番組だから、というのもあるのでしょう。それにしても終盤の面白さへの執念がここでは全然出てきません。面白い番組が作りたくて今の仕事をしているんじゃないの?

フィクションを作る世界にも現実があり、花岡さんはそれに呑まれつつあったのではないかと考えます。番組は制作陣の筋書き通りに進み、コーナーやイベントにはシナリオがある。多少のアドリブや臨機応変な対応はあっても、定められた路線からの大きな逸脱はない。そして憧れた世界も入ってしまえば日常となり、慣れればつまらない現実の一部と成り果てる。

それでも外よりは刺激が強い場所であり、構成作家業もやりがいはあったのでしょう。だから続けていた。

復讐の話に移ります。みずきLOVE、さくらみき人形、SNSの書き込みやブログから、花岡さんたちは瑞希ちゃんを殺したのが市長であり、ハピママさんが瑞希ちゃんの母親だと気づきます。でも放送を止めようとはしませんでした。お面の集団が見えていたはずなのに。

まさか、殺人が起きるなんて予想していなかったからでしょう。ハピママさんが市長に復讐しようと企んでいることまでは読めたかもしれない。でも現実ならせいぜい糾弾する、罵倒する、ビンタする、拳で殴るくらいだろうとタカを括っていたのでは。ドラマなので視聴者は「ああ殺すんだな」と思いながらあのシーンを観ますが、現実の中継だったら「まさか殺しはしないだろう」となりますよね。

そんな儚い予想は裏切られ、市長は殺された。その時、花岡さんは笑みを浮かべます。この回ではっきり表情が出るのは多分ここだけです。何がそんなに面白かったのでしょうか。

想定外のことが起きたからだと考えます。筋書きや予定調和からの逸脱。現実の人間の計画がフィクションを超えて目の前に立ち現れました。虚構を作り、虚構に溺れて生きてきた花岡さんは、ここで初めて恐ろしい現実の力を目にしました。

同時に花岡さんは自覚したのではないでしょうか。自分が求めている面白さがどんなものか。人間の暗部、隠されていたものが暴かれる瞬間。人間誰しも自分の趣味嗜好はある程度把握しているもの。ですが偶然目にした作品などではっきりとした形で突き付けられ、改めて自分の好みを理解する、という瞬間はあるものです。少なくとも私は何度か経験しています。

どうであれ、この日は花岡さんにとって運命の放送となりました。このアクシデントがその後の面白さだけをひたすらに求める姿勢に繋がるのですから。

長くなったので分割します。
お読みいただきありがとうございます。

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