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「忌」ということについて①

先日、「忌中」という言葉を目にしました。
ご存知のように、「忌」とは、死や不幸な出来事に関連して、一定期間、飲食や行動を慎むことを意味しています。これは、死者への追悼の意を表すとともに、死がもたらす穢れや災いを避けるための行為と解釈されているようです。

古来、死が「穢れ」とみなされたのは、伝染病や、干ばつ、冷害、台風、地震などの自然災害による被害が現在よりも大きかったからなのでしょう。現在と比べて死はより身近にあるもの、常にそばにある恐怖だったのかもしれません。
そのため、死を「穢れ」として遠ざけておきたかったのではないかと思います。

一方、浄土系の仏教では、死は極楽浄土への往生の入り口とみなされています。そこには、伝染病や自然災害、身分制度や戦乱などから民衆を守れない、当時の社会体制の限界や、自分の力で悟りを開けない個人の能力の限界といったことが、背景に合ったのだと思います。
ですから、浄土系の仏教では死を穢れとはみなさないそうで、特に浄土真宗では、葬儀の後に塩を撒く習慣はないようです。

上記のような、死を穢れとみなす考え方は、現代ではだいぶ薄れているでしょう。
そして、仏教が多様化し大衆化した鎌倉時代と比べて、現代では社会体制の不備はだいぶ改善されています。それでもなお、どうにもならない厳しい状況の発生はなくなってはいません。
また、個人の能力の限界については、さほど変わってはいないようにも思えます。自分自身の力での人格の陶冶を目指しても、やはり依然としてそこには限界があります。
そしてさらには、現代においてもなお、誰も死を免れることはできません。

しかし、現代の世俗的で科学的な考え方では、死は全くのマイナスの事柄としてしかみなされていない面もあるような気もします。現代では、浄土系仏教の言う極楽浄土への往生という思想は、効力を失いつつあるように思います。

死とは生の限界であり、人間の有限性の象徴でもあります。
ハイデガーは、人間は常に死に向かっている存在であると論じ、より主体的に生きることを称えました。
フランクルは、人間はいつか死ぬ存在であるからこそ、何かを成し遂げようとするのだと言いました。
しかし死が象徴する人間の有限性には、個人の多様な心身の強さの限界も含まれていると思います。その限界への眼差しも大切なのではないでしょうか。

誰もが死を免れないのであれば、私たちは死について、もっと考えなければならないのではないかと思います。人間中心主義に陥ることなく、人間の精神を過信することもない、現代人にも受け入れられるようなバランスのとれた、死の意味や意義が、今こそ必要になっているような気がします。

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