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宗教や信仰についての雑記 #355
◯「適わない」
「適わない」という言葉を時々使うことがあります。「暑くて適わない」「寒くて適わない」「忙しくて適わない」などと言うことがあります。
これはご存知の通り、「我慢ならない」とか「やりきれない」といった意味の言葉ですが、なぜ「適う」の否定がこのような意味として用いられているのか、ふと気になりました。
「適う」という言葉の意味は、
・ぴったり合う、条件や基準に適合している
・思い通りに実現する、願ったとおりになる
・そうすることができる、可能である
などといったことのようです。
ですから「適わない」というのは、
・その状況が条件に合っていない
・特定の基準に適合していない
・まともなことができる状況ではない
ということなのでしょう。
昔読んだ曽野綾子氏のエッセイの中に「現実は常に不備」という言葉がありました。おそらくそれは、人間は常に現実に不満を持つものだ、というような意味だと思います。
しかし、その「現実」の中には、その時の自分自身の状態も含まれているのではないでしょうか。
そう考えると「現実は常に不備」ということは、自分自身も常に不備であるということになります。
そうであるならば「適わない」という言葉の意味は、
・その状況に対して自分が合っていない
・自分が必要な基準に達していない
・自分がその状況に対応できる能力がない
ということになります。
そのことを宗教的な観点から捉えれば、神仏の意志やはからいを信じきれていない、今この瞬間に集中していない、ということになるとも思われます。
無論、「我慢できない」「やりきれない」ことが「適わない」と表現される場合の意味は、単に「できない」「力不足」ということだけでなく、その背景にある様々な感情や状況などを含めて、包括的に判断すべきでしょう。
しかし、「自分自身も常に不備」という意識も持っておくことは、自己成長のためには大切であるようにも思えます。
何か困難な状況に置かれて「適わない」と思ったり呟いたりしたら、「今の自分には適わない」と言い直してみるのもいいかもしれません。