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分子進化の中立説と目的論的な解釈①
先日、分子進化の中立説という学説に触れることがありました。
分子進化の中立説とは、遺伝子レベルでの多くの変化は、生存に有利でも不利でもない「中立」なもので、それらは環境への適応というよりも、偶然的な遺伝的浮動によって残ると考えるものです。
ある遺伝子変異が、生存に有利でも不利でもない「中立」な場合、それが偶然的な要因により集団内に広がったり、消えてしまったりする現象が、遺伝的浮動です。
集団遺伝学者の木村資生氏によって、1968年に提唱されたこの説は、分子レベルでの進化は自然選択だけでなく、中立的な変異の偶然的な浮動によっても起こるという考え方です。
これは生物学の分野で大きなパラダイムシフトを起こした理論であり、進化における目的論の否定という哲学的意味合いを持つと考えられてもいるようです。
この中立説は、分子レベルでは適応とは無関係な偶然的な変化が進化の主要な要因であることを示唆しています。これは、進化に明確な目的や方向性があるという、自然選択を主体とした従来の考え方を否定し、偶然性や偶発性が進化において重要な役割を果たしていることを示しています。これは、生物の進化を目的論的に解釈するのではなく、より中立的、客観的に捉えることを可能にします。
そして、進化に目的がないとすれば、人間の存在もまた偶然の産物に過ぎないという考え方も生まれます。人間の存在が偶然の産物であるということは、人間の自由意志や責任といった哲学的問題にも新たな視点を与えてくれます。
しかしここで私は違和感を感じました。そもそも自然選択とは、ある時期や地域における環境に適応し、その環境下で生存や繁殖に有利なものが生き残るということであって、それは環境との相対的なものでもあります。その環境との相対性を度外視した、絶対的な自然選択とか適者生存ということはあり得ません。それまで適応的だったものでも、環境が変化すれば非適応的となる可能性があります。ということは、環境が後にどのように変化するか分からない以上、あらかじめ目的を定めることは不可能です。ですから、自然選択を主体とした従来の考え方であっても、目的論的に解釈すべきではありません。
そうであるならば、そのアンチテーゼとしての中立論もことさら強調する必要はなく、ましてや、人間の存在もまた偶然の産物に過ぎないという考え方は、非常に短絡的なものということになります。
少し長くなりそうなので、続きは次回にしたいと思います。