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無条件の受容

私は人間関係について、しばしば感じることがあります。それは「条件付きの受容」ということです。
人が人を受容するとき、これだけの仕事をするから、これだけの貢献をするから、これだけの成績があるから、これだけのものを与えてくれるから等々、何かしらの条件を前提として他の人を受け入れている、そんなふうに感じるのです。
それは、会社や学校、政治や行政といったような公の場だけでなく、家族や親子であってさえも、血の繋がりや、共に暮らした時間が条件となっているように思います。
ですから、現実の人間関係において無条件の受容を求めることは、ただ徒に自分自身を苦しめることにつながる危険性もあるとも思うのです。でもそれは、とても寂しい考え方のように感じます。
無条件の受容ということは全くあり得ないのでしょうか。

宗教の言葉に「人格神」というものがあります。これは、人間のような情念や意志を持った超越的存在のことだそうです。
その一方「汎神論」という言葉もあります。これは、現実は神性と同一である、あるいは、すべてのものはすべてを包含する内在的な神を構成しているという信条で、神を擬人化した人格神を認めず、一切全てを神と同一視する考え方とのことです。
また、人格を持たない、宇宙の法則や原理的な力としての神という、非人格的な神の捉え方もあるようです。

もし超越者を上記の非人格的な神のように、自己生成と自己組織化をするシステムのようなものと捉えたとするとどうでしょう。宇宙はその超越者の働きにより、悠久の時を経て自己生成と自己組織化を重ねた末に、人格を持つ人類を生み出しました。そしてまた上記の「汎神論」のように、現実は神性と同一で、すべてのものはすべてを包含する内在的な神を構成しているのならば、この宇宙に人格を持つ人類が生まれたということは、非人格的な神が、進化的自己組織化による自己超越の末、人格神という側面(あるいはペルソナ?)を得たということになるのではないでしょうか。

多くの人格神は人間への慈悲や愛を持っています。それは我々が他者への慈悲や愛を持っている、あるいは持ちうることの顕れでもあるような気もします。
そしてその超越者の慈悲や愛は、人間への無条件の受容ということをも含んでいるのではないでしょうか。

しかし現実の人間関係では、ほとんどの場合「条件付きの受容」しか見られません。でも心の奥底に無条件の受容を求める思いを秘めている人は少なくないようにも思います。そして神がすべてを包含するものであるならば、その神の慈悲や愛とは無条件の受容を求める思いへの応答でもあると思います。
さらにその応答は、私たちに己の慈悲や愛への進化的自己組織化をも促して、私たちに自己超越を求めるものでもある、そんなふうにも思えるのです。

もし、条件付きの受容ばかりの人間関係に疲れて、心が萎えてしまったら、自分が超越者に無条件で受け入れられていることを思ってみてはどうでしょうか。
超越者が人格神としての自己超越を果たしているのは、私たちの存在があるからこそであり、一個の人格として存在していることのみが、私たちが神から受容される条件なのですから。

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