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宗教や信仰についての雑記 #275

◯往生

困った状況に陥ったときのことを、「〇〇して往生した」と表現されるのをしばしば耳にしたことがあります。
「往生」とはもともと、死んだ後に仏の浄土へ生まれることを意味する仏教用語なのですが、それが時代を経て「困り果てること」をも意味するようになっています。

「往生」の他にも「我慢」や「玄関」や「挨拶」のように、仏教が社会に広まるにしたがって、仏教用語が日常会話の中に溶け込んで、本来の意味から変わってしまった例がいくつかあるようです。

仏教には、正法、像法、末法という考え方があるそうです。
ごく大雑把に言うと、お釈迦様の入滅後、その説かれた教えはしばらくの間は正しく保たれるが(正法の時代)、やがては形骸化し(像法の時代)、そしてついには滅んでしまう(末法の時代)というものです。
仏教用語が言葉だけ残ってその意味が変わってしまうのは、像法の時代の現象のように思えます。

このような時代区分の考え方は、どちらかというと虚無的で悲観的な感じがしますが、仏教がその根本的な教えとして諸行無常を説いているのならば、その仏の教えそのものもまた、無常であるということなのでしょう。
でもよくよく考えてみればそれは虚無的なものでも悲観的なものでもなく、世の変化に応じて教えをアップデートしてゆきなさいということなのかもしれません。

「往生」という言葉からは、困難な現実への絶望感や無力感が連想されることもありますが、親鸞聖人は浄土に往生すること(往相回向)だけでなく、浄土から還ってくること(還相回向)をも説きました。
それは浄土へ行って悟りを開いたならば、再び現実世界に戻ってきて苦しむ人々を救いなさいということです。
それを現代的(世俗的)な意味に変えると、「往生する(困り果てる)ような目に遭ったなら、その経験を他の人に生かしてもらいなさい」ということにもなるのでしょう。
でもさらに広い目で観れば、「それまでの教えで救いきれなかった苦しみを見つけ出しなさい」ということでもあるような気がします。

仏教用語が日常会話の中に溶け込んで、本来の意味から変わってしまったならば、現代に合う新たな言葉(概念)を見つけ出す必要があるのでしょう。

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