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宗教や信仰についての雑記 #311

◯テセウスの船のパラドックス

先日、テセウスの船のパラドックスという話を聞きました。
これは哲学上の問いの一つで、簡単に言うと、ある物が、その構成要素を全て新しいものに置き換えたとき、それはまだ元の物と言えるのか?、という問題です。

そしてこの問いは、古代ギリシャの英雄テセウスが乗っていた船を例にしたものだそうです。
それによると、この船は長年航海に使われ、老朽化した部品は徐々に新しいものに交換されていきました。全ての部品が交換されたとき、この船はもはや元のテセウスの船と言えるのでしょうか?という問いで、この問いに対しては、人によって様々な答えがなされてきました。

同じ船だと考える人は、人々がそれを同じと認識しているならば、あるいは、船の名前や歴史的な背景、そして船としての機能が変わらないのであれば、それは同じ船だと考えます。
一方、別の船だと考える人は、全ての部品が交換されているのであれば、それは全く新しい船だと考えます。

私はその話を聞いて、まず伊勢神宮を思い浮かべました。この神社はご存知のように式年遷宮が20年に一度行われます。それでもそこは同じ伊勢神宮と人々からみなされています。
建物の構造や材料や建築の工法は常に同じで、さらに旧殿から新殿へ御神体がされるならば、そこは同じ伊勢神宮なのです。

そこでこの、テセウスの船のパラドックスという問いを宗教一般に当てはめてみたらどうなるでしょう。
あくまでも一般論としてですが、古くからある宗教は現在までの長い歴史の中で、様々な問いを突きつけられてきました。なぜなら世の中は常に動いていて、新たな問題が次から次へと発生するものだからです。
その問題を突きつけられるたび、宗教はその経典(教義)に新たな解釈を付け加えてきました。その過程の中で、正統と異端の区別、解釈への疑義、批判と分派、といったことを経て現在に至っています。

そのような経緯を経てきた神仏は、昔と同じ神仏と言えるのでしょうか。
おそらく信仰の外側(学術的な見地など)から観れば、それは時代とともに変化した異なるものと映るかもしれません。しかし、それを信仰する信者の立場から観ればやはり、昔から一貫して変わらぬ同じ神仏なのでしょう。
なぜならそこには、その中核となる機能の「救い」が変わらずあるからです。

これは個人的な意見ですが、テセウスの船の問いがパラドックスとみなされるのは、その問い自体に問題があるからだと思います。
その問題とは「同一性」の定義を定めないまま問うていることです。
物事には皆、様々な側面があります。ですから、それらの内どの側面に着目するかにより、同一性の意味は変わってきます。どの側面に着目すべきかは、その時の状況によります。

宗教が現実世界の中でその役割を果たそうとするならば、歴史や伝統に束縛されることなく、その中核的な機能である「救い」を、目の前の状況にどのように活かすかを考えるべきなのだと思います。

社会が世俗化し宗教が衰退している状況や、逆に宗教の違いにより争いが起きている状況で、宗教が本来の輝きを取り戻すには、テセウスの船のパラドックスが問いかけていることを、深く考察する必要があるような気がします。

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