宗教や信仰についての雑記 #323
◯殺人と自殺
テレビやネットなどのニュースでは、ほぼ毎日のように殺人事件の報道が見られます。そのようなニュースを見るたびに「人間とは恐ろしいものだ」などと思ってしまいます。
「殺人」ということは古くから多くの国や地域で、法的にも宗教的にも重大な罪であるとみなされています。
しかしその一方で、殺人が正当化されることも古くからあります。それはより大きな価値を守るためなら多少の犠牲は止むを得ないという、生命の価値の相対化によるもののようです。戦争や死刑、尊厳死といったことはその例だと思います。
また、宗教は生命の価値を絶対的なものとみなしているようなイメージが、広く一般に定着しているように思いますが、生命の価値の相対化は宗教にもあるようです。宗教に基づく戦争やテロリズムは、「聖戦」という概念を用いて、異教徒の生命の価値を相対化しているようです。
人間の生命全般の価値や生存権を平等に認めること、そして殺人の罪を、苦悩と憎しみの連鎖を生むことをその根拠とすること。このような考え方が広まれば、戦争やテロリズムはもっと減るのではないかとも思うのですが、現実はそんなに単純でも簡単でもないようです。
ところで、人の生命を奪うことが重大な罪であるならば、自分自身の生命を奪うこと、つまり「自殺」もその内のひとつとみなされるのでしょうか。
宗教的な観点では、自分の命も神からの与えられたものなのだから勝手に奪ってはならない、という理由から重大な罪とみなされるようです。
その一方、世俗的あるいは唯物論的な観点では、自分の命は自分のものなのだから、それをどうするかは個人の自由だとみなす考え方もあるようです。
しかし、生命について「所有」という概念を当てはめることには問題があるように思います。一般に、ものを所有するとき、所有者と所有物は別々のものであり、所有者は自分の意思で所有物を所有します。
しかし生命については、所有者と所有物とを分離できません。分離した途端に所有者は存在しなくなるからです。
そして、所有者は自分の意志で生命を所有しているのではありません。所有者の自我が発達する以前に生命は既にそこにあるからです。つまり、生命の存在の上に所有者は存在しているのです。
そう考えると、「自分の命は自分のものなのだから、それをどうするかは個人の自由だ」という論理は少なくとも説得力を持たないように思えます。
それではどのような場合でも自殺は罪なのでしょうか。私は必ずしもそうではないと思います。
現代の民主的な社会では、たとえ殺人であっても、加害者が心神耗弱の状態にあった場合は、刑事責任が軽減され、心神喪失の場合は罪に問われないこともありますます。
自殺の場合もそれと同じように、うつ病のように現実の認識が変化した状態では、必ずしも罪だとは言えないでしょう。
うつ状態にある人に「がんばれ」などと言って励ますのは逆効果であり、そのような人の自殺を防ぐためには周囲からのサポートが欠かせない、ということは今では広く知られていることだと思います。
それと同じように、生命の価値の相対化による戦争やテロリズムについても、それをただ非難するだけでは効果は期待できないと思います。
そこには、たとえ非常に困難ではあっても、相手の話を聴き、話し合う姿勢も必要なのではないでしょうか。
突き詰めて言えば、我々にもっと必要とされていることは、他者への理解と尊重ということのような気がします。
そのことをより深く理解し行動することにより、「人間とは恐ろしいものだ」という認識が世界から少しでも減ることを願っています。