宗教や信仰についての雑記 #318
◯重力と光
昔、宇宙を扱ったテレビの科学番組で、重力とは物体の存在による空間の歪みであり、空間の歪みであるので光の進む方向も重力の影響を受ける、という内容を見ました。
この物体の存在が空間を歪めるということが、正直なところあまり良くわかりません。
物がきちんと整理されて、めいっぱいに入っている棚や箪笥に、さらに無理やり物を入れようとすると、それまで整理されて入っていた物が歪んでしまう、そのようなことなのでしょうか。
そうであるとすると「空間」とは全く何もない「空」の状態ではないということになります。
そうであるならば、物体が空間に存在するということそのものは、それなりの力が必要になるということになります。
そのことは人間が存在することの象徴でもあるような気がします。
我々はただ存在するだけでも力を要します。そして存在することそのものが、周囲に何らかの影響を与えているように思います。
また光は、知恵や希望を象徴することが多いです。光の進む方向が重力によって影響を受けるように、知恵や希望も人の存在によって、その進む方向が影響を受けるのではないでしょうか。それがどのような方向に変わるか、それはその人の在りようによるのでしょう。
そして重力場と呼ばれる空間の歪みは、歪みそのものは直接観測できず、その影響を受けた物体の動きを介してしか観ることはできないそうです。
そのことは、人の心や精神や魂といったものが目には見えず、その言動や周囲への影響を介してしか見ることはできないことの象徴のようでもあります。
こうして観ると、重力とは物体の存在による空間の歪みであり、空間の歪みであるので光の進む方向も重力の影響を受けるということは、我々人間の存在の在りようを象徴しているかのようにも思えます。いや、むしろその逆で、我々の存在の在りようの方が、物体と重力と光との関係のフラクタルとなっているような気もします。
さらに光についてですが、光の進む速度は観測者がどのような慣性系に在っても一定である、ということがよくわかりません。つまり観る者が動いていようが止まっていようが、相対的な光の速度は変わらないのです。これは日常的な感覚からするとありえないことのように感じます。
ただ、ことことを象徴的に捉えると、知恵や希望の進む速度は、我々がどのような状態に在っても変わらないということなのではないでしょうか。
その「光」のない状態、つまり「闇」はときにあっと言う間に広がってしまいます。
スペイン風邪や新型コロナの流行とか、リーマンショックの影響とかもそうですし、口コミでもSNSなどでも良い評判よりも悪い評判の方が拡がるスピードはずっと速いそうです。
そんな状態の中に在っても、「光」の進む速度は相対的に変わらないのです。ですから、たとえ闇の中に在っても、希望を捨てることはありません。絶望に陥ることはないのです。そんなふうにも考えることもできます。
そのこともまた、我々の希望の在りようが、光速が不変であることのフラクタルとなっているように思えます。
無論ここで書いたことは、科学的・客観的に証明できることではありません。でも、心の平安や健康を保つための考え方のひとつとしては有効なのではないでしょうか。
辛く苦しい時、侘しく哀しい時、立ち止まって夜空を見上げて、そんな宇宙の眼差しを感じてみるのもいいかもしれません。