宗教や信仰についての雑記 #357
◯「すべる」「すべり落ちる」
スキーやスノーボードの季節です。また、受験のシーズンでもあります。この時期、非常に対照的な言葉があります。それは「すべる」や「すべり落ちる」です。
ウインタースポーツを楽しむ人にとっては、それはその楽しみの中核でありますが、受験生にとっては口にしてはならない禁句です。
そんな対照的な意味を持つ「すべる」という言葉に、少々興味が湧きました。
「すべる」や「すべり落ちる」ということにはまず、存在の不安定さという意味があるようです。万物は常に変化し、いかなる状態も永遠に続くことはありません。すべてのものは変化し、最終的には壊れていきます。そのような無常観がこの言葉には含まれているように思えます。
また「すべる」は、個人の意志とは無関係に、外部からの力によって引き起こされることもあります。これは、私たちが運命や偶然によって支配されているという考えを想起させます。そのことは、人は本当に自由な意志を持っているのか、それとも運命によってあらかじめ決められた道を歩んでいるのか、という問いを思い起こさせます。
そして、時間は常に未来に向かって流れ、過去に戻ることはできません。「すべり落ちる」は、この時間の不可逆性を象徴的に表しています。
自然界では、エントロピー(無秩序度)は増大する傾向にあります。この法則の現れの一つである人間の老いや死も、時間の流れの中で不可避的に起こる現象です。「すべり落ちる」は、この人間の存在の有限性を象徴的に表しているようでもあります。
これらは皆この言葉が、人間の持つ存在の不安を表しているように思えます。世界の中での自己の存在意義への、絶えざる問いにさらされている人間の不安感の象徴のように感じられます。
その一方で、スキーやスノーボードで「すべり落ちる」場合は、リフトでゲレンデの高い位置まで登って滑り降りてくるのですが、それは、蓄積された位置エネルギーを運動エネルギーに変換して解放するということでもあります。その解放による爽快感がこのスポーツの醍醐味なのでしよう。
それはまた、普段から貯めてきたお金を使って、買い物をしたり旅行に行ったりすることの解放感とも似ているのかもしれません。
それは縛られ閉じ込められていたものが、ようやく解き放たれたときの喜びのようなものなのでしょう。
これらのことは人間の自由を表しているようにも思えます。
自由とは何ものにも束縛されないことであると同時に、何も定められていないことでもあります。
そこでは、自分の道や存在意義は自分で探さなければならず、ときには自分で切り開き、創り出さなければなりません。そんな不安定な状況への不安感と、束縛からの開放感とが同居している、「すべる」や「すべり落ちる」ということにはそのような複雑な感覚が含まれているような気がします。
また、この「すべる」や「すべり落ちる」ということを宗教的な観点から捉えると、まずは「信仰の喪失」や「修行からの脱落」のような否定的なイメージが持たれることが多いかもしれません。
しかし、すべり落ちるためには一度高みに登らなければなりません。そう考えると「すべり落ちる」とは、「信仰」という位置エネルギーを「慈悲」や「愛」という運動エネルギーに変換して解放することとも考えることができます。
それは自分だけが救われればいいという、言わば「最後の我執」を克復し、その束縛から解放されることでもあるのかもしれません。
「すべる」や「すべり落ちる」という言葉にはこのような重層的な意味が含まれているように思うのですが、やはり受験生の前ではこの言葉は控えたほうがよさそうです。