見出し画像

宗教や信仰についての雑記 #245

◯強制的な不妊手術の問題

先日、旧優生保護法のもとで不妊手術を強制されたとして全国各地で続いている裁判で、原告・弁護団と国が和解の合意書に調印したというニュースを見ました。
この強制的な不妊手術の問題には、「生きる意味」ということが関わっているように思いました。

人は皆、生きる意味を求めていると思います。自分の存在意義や人生の意味がなければ、誰も前向きに生きてはゆけないと思うのです。
ですから、たいていの人は何かしらこの「生きる意味」をどこかに見出しているのでしょう。

でも現代の世俗化した社会では、その「生きる意味」を求める場が、現実の世界、現象的な形のある世界、所謂「形而下」の世界に限られてしまっています。
大方の人はそれでいいのかもしれませんが、決してそれでは充分なものではありません。この意味求める場が形而下に限られると、どうしても「取りこぼし」が生じてしまいます。
そうして少数ながらも生じた「生きる意味を見出だせない者」とみなされた人々に対して、将来の苦悩を取り除くという理由で、不妊手術が強制されたのでしょう。

そこには形而上的な視点の欠如があったのだと思います。
我々は社会の中で暮らす人間である以前に、一個の生命でもあります。生命の意味や生命の存在意義といったことは、言葉による思考や認識を超越しています。目に見える形のある、言葉で捉えられる世界の中には、そのような意味を見出すことはできません。
この世界を超えた形而上的な視点が、旧優生保護法には欠落していたのでしょう。

この強制的な不妊手術の件は、遠い過去の出来事でも対岸の火事でもありません。
生きる意味といった根源的な問いが、日常の中に突然析出してくることは、おそらく誰にでもあり得ることなのでしょう。
このニュースはそのことを我々に考えさせてくれるものなのだと思います。

いいなと思ったら応援しよう!