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忙しいということ

私事ですが、いつの頃からか、「忙しい」というのが口癖のようになっていました。今の世には、そんな人は少なくないようにも思います。
「忙しい」とはどういうことなのでしょう。

「忙しい」とは一般的に、多くの用事に追われて暇がない状態を指す言葉です。私たちの時間は限られており、私たちは常に何かを選択し、何かを諦めなければなりません。当然ながらそこでは、優先順位を決める必要が出てきます。そのことは、自分の有限性と向き合い、本当に大切なものは何かを問い直すこと私たちに促します。

以前、ある禅僧が「忙しい、忙しい」と言っていたところ、師匠の老師に「忙しいとは心を亡くすと書くのだ。僧侶が心を亡くしてどうするのか!」と叱責された、という話を何かで読んだことがあります。
仏教では「心を亡くす」ということは、煩悩や執着に囚われ、本来の清らかな心を見失うことを指すそうで、その状態は苦しみの原因であるとされているとのことです。
限られた時間に多くの用事に追われるということは、それだけ多くのことに執着しているということでもあるのでしょう。

しかしその一方、私たちは自分の意志とは関係なく、ある時代、ある場所に生まれ、そこで生きていかなければなりません。そのように、私たちは「投げ込まれた存在」であり、忙しさは、このような宿命を象徴していると言えるかもしれません。そのような宿命のもとで私たちは、忙しさにどのように向き合えばいいのでしょう。

忙しさは私たちに、時間管理、効率性、集中力など、多くの能力を磨くことを求めます。そして時には他者と協力し、共に何かを成し遂げることをも求めてきます。そのような忙しさ中では、私たちが「亡くす心」とはむしろ、「我欲」とか「我を張る」とかいうような場合の「自我」なのではないでしょうか。それは見方によっては、苦しみの原因となる煩悩や執着から離れることと観ることもできるように思います。
「投げ込まれた存在」という宿命は、向き合い方によっては、ときに自己を高める踏み台ともなり得るのかもしれません。

「忙しい」ということには、このような二面性があるのでしょう。私たちはそのことを深く認識し、忙しさにより「亡くす心」を正しく選ばなければならないのではないかと思います。

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