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宗教や信仰についての雑記 #362

◯宗教の相補性

以前、「心こそ 心迷わす 心なれ 心に心、心ゆるすな」という歌を読んだことがあります。
この歌は江戸時代の有名な禅僧である沢庵禅師が詠んだとされています。
この歌の意味は、「自分の心こそが、自分を惑わせる最大の原因である。自分の心というものに気をつけなさい。自分の心に気を許してはいけない。」というものだそうです。

仏教では、心は様々な煩悩(欲望、怒り、嫉妬など)を生み出す根源とされているようです。煩悩に振り回される心は、不安、絶望、そして執着を生み出し、それが苦しみの原因となります。

一方、キリスト教やイスラム教では、心は神との関係を築く場、つまり信仰の場とみなされているようです。心は、神との対話や祈りを通して、信仰を深め、神との関係を築く場となります。

この対照的な違いは、おそらくキリスト教やイスラム教は世界の創造主である神と自己との関係を重視するのに対し、仏教は創造主としての神を認めず、自己の苦悩の滅尽を重視することから来ているのでしょう。

また心と関連して、言葉についても似たような違いがあるようです。
仏教には言葉はあくまで仮のものであるという考え方があるそうです。仏の教えは言葉を用いらなければ伝えられないが、言葉はときに苦悩の元である執着をも生むというのです。

その一方キリスト教では、神は「ロゴス」つまり「言葉」として現れ、世界を創造したとされています。この「言葉」は、理性や秩序を意味し、神と世界を結びつける存在です。
そしてイスラム教では、「言葉」は、神からの啓示や預言者ムハンマドの言葉(ハディース)、そしてシャハーダ(信仰告白)やアザーン(礼拝の呼びかけ)の言葉といった、信仰生活の基礎を成す重要な要素となっています。

以上のことは、心や言葉の二面性を表しているように思います。心や言葉には、私たちを救いへと導く面もあれば、苦しみや破滅へと導く面もあります。
キリスト教やイスラム教はその二つの内、救いへとつながる道を指し示し、仏教は苦悩と破滅へつながる道への警鐘を鳴らしているようです。

このことは宗教の相補性を表しているのではないでしょうか。そのような点に注目することは、多様な宗教が互いに補完し合い、より豊かな精神世界を築き上げることができるという考え方につながります。それは、各宗教が持つ独自の価値観や教えは、互いに補完し合うことで、より包括的で深遠な価値観体系を形成することができるということでもあります。
また、多様な宗教の視点から一つの問題を捉えることで、より多角的な理解が可能になります。
そして、異なる宗教の人々が互いに尊重し合い、協力することで、より広範な共同体意識を育むことができます。

価値観が多様化し複雑化する現代社会の中で、これらのことは、今後宗教が担うべき重要な役割であるとも思います。

そのためには、それぞれの宗教が、それぞれの間の対立や衝突といった、過去の暗い歴史を乗り越えて対話をしなければなりません。それには客観的に自分自身を観ることが肝要となります。宗教や信仰といったことにも、自己の認知のあり方に対してそれをさらに認知することである「メタ認知」が必要なのだと思います。

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