宗教や信仰についての雑記 #343
◯プリーモ・レーヴィの死
前回の「自由は言葉の源」という言葉は、イタリアの作家、プリーモ・レーヴィについてのドキュメンタリー番組で知ったものです。
プリーモ・レーヴィは第二次世界大戦中にナチス・ドイツによってアウシュヴィッツ強制収容所に送られ、その経験を生き抜いた人物です。
彼はアウシュヴィッツでの体験を克明に記録し、「これが人間か」をはじめとする作品を発表しました。これらの作品は、ホロコーストの残酷さを世界に伝える重要な証言となり、文学史に残る傑作として評価されています。
しかし彼は、1987年に自ら命を絶っています。彼は心の内に大きな葛藤を抱えていたようです。
彼は、多くの仲間が亡くなったのに自分が生き残ったのは、収容所の出来事を世に伝えるためだと思っていたようです。「これが人間か」等の記録文学を発表したのもそのためだそうです。
しかしその後、ヨーロッパでは歴史修正主義やネオナチが現れ始め、イスラエルはパレスチナ人を弾圧し、レバノンにも侵攻しました。
彼はレバノンで数多くの一般市民が犠牲になったことを知り、イスラエルが攻撃的なナショナリズムに傾き、かつてナチスが行なったのと同じことをしようしているのではないかと懸念していました。そのため彼は、イスラエルのレバノン侵攻に反対する文章を発表したのですが、そのことについて内外のユダヤ人社会から強い批判を浴びたそうです。
やがて彼は、収容所の出来事を世に伝えるという、自分が生き残ることを許された理由であるその役目を、十分に果たせていないのではないか、自分は生き残るべきではなかったのか、と思い悩むようになったようです。
唐突ですが、そこで私は、昔読んだSF小説に出てきた、道具を使う蟻の話を思い出しました。
その蟻は特別な蟻ではありません。蟻は冬になるとそのほとんどが死んでしまうため、経験によって得た知識が伝わらず、春になったらまた一から学び直さなければならない。だからコロニーを暖めて多くの蟻が生き残るようにすれば、知識が蓄積され進歩して、やがて自分たちで道具を作って使うようになる、という話でした。
無論これはフィクションで、現実にコロニーを暖めてもそんなことにはならないでしょう。
我々はそんな蟻と同じです。
過去の歴史から様々なことを学んで、そのことを伝えても、その伝達がどこかで途切れてしまって、また同じことを幾度となく繰り返しています。
私たち人間と蟻と、どれほどの違いがあるのでしょう。
プリーモ・レーヴィの葛藤は、そのことを私たちに伝えてきているように思いました。
今さらですが、彼の冥福を祈ります。そして未来の人間が、蟻よりも多少なりとも賢くなることも。それは信ずるに足ることでしょうか。その答えは、私たち自身が探さなければならないことです。