小説|朝日町の佳人 16
沢口氏は少しだけ意地悪な口調で言った。
「これは、すみませんでした。余計なことを言わなければよかった。せっかくの百合さんのプレゼントを、あなたは素直に喜んでいたのに」
「はっはっは。また可笑しなことをおっしゃいますね。これは無理やりあいつから押し付けられたんであって、僕は喜んでるどころか面倒でウンザリしているんですよ。大体こんな模様の袋、男が持つものじゃないですよ、恥ずかしい。けど僕が使っていないと判ったら、試作品のくせに偉そうに文句を垂れるんですから。それで仕方なく家の近所限定で使ってやってるだけで」
「まあまあ、落ち着いてください。それより、この間、百合さんが家にいらっしゃいまして」
「懲りずに来ていますか」
「ええ、それが、いつもと様子が違いましてね。何だか思いつめた風で、私のこと嫌いですかと聞かれるんです」
「……それで、あなたは何て?」
「私は正直、百合さんを嫌ってはいないんですよ。可愛らしい方だと思っています。でも、私には、彼女の気持ちに応える資格などないんですよ。ただそれだけの事なんです。先日の結婚披露宴の時の百合さんは、とても素敵でした。ドレスアップしていたことも勿論ですが、あの場からすぐに逃げ出したいと思っている百合さんは、とても可愛らしかったし、好ましい女性だと感じました。あの時の紺色の服の女性、私はあの場では仕方なく話をしていましたが、実を言えば私こそ逃げ出したかった。嫌いなんですよ、ああいう雰囲気の女性は」
僕は驚いた。
「珍しい。沢口さんにしては、いやにはっきり言うじゃないですか」
「そうですか?」
「はい。でも、確かにちょっと、男の目を意識し過ぎてる観はありましたね。そんなオーラみたいなのがガンガン出ていました。なんと言うか、あなたに対してですけど」
「感じましたか」
「ええ。沢口さんに対して、興味を持っているなと、強く感じました。まあ、相手があなたなら仕方ないでしょうけどね。でも、百合よりも自分の方がいい女だろうと、挑発しているように感じて、僕もちょっと居心地は悪かったですね」
「それです、私が嫌だと思った雰囲気は。あの時、彼女の敵は完全に百合さんでした。だから私は、あなたには悪いと思ったが、百合さんを守りたかったんです」
「悪くはないですよ」
「ええ、そうですね。もしあなたがいなかったら、私はもっと芝居がかったことをしていたかも知れない。でも、そんな事をしなくて良かったと今はほっとしていますが。田中さんのお蔭です。言っておきますが、私は百合さんの方が断然いい女だと思いますよ」
「え、そうなんですか?」
「ええ。あの時の人は化粧と演技が上手いだけのような気がします。あなたには怒られるかもしれないが、プロポーションだって、百合さんの方がいいです」
「そうですか?」
「そうですよ」
「結構、沢口さん、見てるんですね」
「一応、これでも男ですから。とにかく、そんな風に私は、百合さんに対して時々、恋心のようなものを、抱かないことはないんです。だから、嫌いではないですよと、正直に返事をしたんです。彼女の正直に、私は正直で返すしかなかったんです」
「そうですか。あいつ、喜んでたでしょう」
「どうでしょう。淋しそうなまま、あきらめた様子で帰られましたが」
「あきらめた?百合が?」
「いや、翌日また来られて、その時はいつもの明るい百合さんに戻ってらっしゃいましたが」
「……あ、そうですか」
「それでその時、会話が途切れたところで、私の方から田中さんはお元気ですかと聞いてみたんです」
「退屈しのぎに、僕の名を持ち出さないで下さい」
「すみません。そうしたら、百合さんはあなたと喧嘩していて、しばらく会ってもいないし喋ってもいないと。本当ですか?」
「本当ですよ。あいつのせいで、どういう訳だか僕は自分の実家の立ち入りを禁じられてるんですよ」
「はあ、なるほど。それでうどんを……」
「見ないで下さい」
「すみません。でも、いけないな。仲直りしないと」
「こっちの勝手ですよ」
「それはそうですが。百合さんも、お蔭で心置きなく田中さんの実家に遊びに行けると、冗談でも喜んでられましたしね」
「え、百合、家に行ってるんですか?僕がいないのに?」
「ええ、そう仰っていましたよ。田中さんのお母様は、お菓子作りが得意だそうですね。最近は花嫁修業におばさんからお菓子作りを習っているんだ、とか仰って」
「なーにが花嫁修業だ。そもそもあいつは」
僕がむっと口をつぐむと、沢口氏は立ち止まってこちらを覗きこむ。
気付けば、もう沢口邸の前だ。
僕は妙に腹が立ってきたので、つい突っかかるように沢口氏に言ってしまった。
「百合と結婚してください」
「……は?」
「いっその事、もうスパッと、ここは勢いでも何でもいいから、百合と結婚してみませんか?そうしてくれた方が、こっちとしてもスッキリするんですがね」
「あの……そういうのは、多分、自暴自棄と言うんですよ。突然なにを言い出すんですか」
「あなたも仰いましたように、百合は人並みにそこそこ見られる可愛い顔をしていますし、スタイルもまあ普通にいいですよ。性格は多少問題がありますが、あなたが相手なら何とか一生猫を被っていられるかも知れませんし」
「落ち着いてください、田中さん。私は、あなたと百合さんの仲直りのお手伝いが出来ないかと考えていたんであって」
「そんな事はもうどうでもいいんです。大体あいつがこんなだから、僕はいつだって迷惑を被っているんです。あいつが男を作るなり結婚するなりしてくれれば、僕はこんな」
八つ当たりだとは判っていたが、僕は沢口氏を睨んでいた。
しかし、沢口氏の真面目に僕を、冷静に僕を見返しているのを見ると、ふと全てがバカバカしくなって、僕は彼の望み通り、落ち着きを取り戻すことが出来た。
「いつだってそうなんですよ。僕だって、普通に生活しているんです。毎朝電車に乗って、会社に行って、偶には仲間と食事をしたりして、それで電車に乗って帰ってくるんです。あなたはいつでもこの屋敷にいて、そんな生活がどんなものか判らないかも知れないけど、単調なようで、そうではないんですよ。毎日違う人物に出会って、毎日違う出来事があるんです。仕事でもプライベートでも、いろんなことが起こるんです。その中で百合以外の女と出会うことだってあるんです。百合以外の女に惹かれることだってあるんですよ。でも結局は、結局は、いつだってそこに戻ってくるんだ。いつだって百合がそこにいるから、いつだって長続きしない。もうウンザリなんです。百合がさっさと決まった相手を見つければ、こっちだって踏ん切りがつくんです。あきらめることが出来るんです。沢口さん。あなた、百合を好きなんでしょう。だったら、本気で彼女のことを見てくれませんか?真剣に、百合の想いを受け止めてくれませんか?あなたも言ったけど、あいつは正直なんです。真剣なんですよ。はぐらかしていないで、真面目に考えてくれませんか?」
沢口氏はしばらく黙ったまま、僕の顔を見ていた。
しかし冷静だったその瞳に、物怖じするようなかげりが表れ、そして、かすかに震えた唇を、彼は噛みしめた。
「私は、百合さんに相応しい人間ではありません」
「そんな逃げ口上、聞きたくありませんよ」
「でも、真実です」
「何があったか知りませんが、それは百合が決めることでしょう。それが単なる逃げでなく、本心から言っているのであれば言いますが、あなたが決め付けることではないと思います」
「田中さん。私は、あなたの気持ちが判っているつもりでいます。判るものかと、あなたは思うでしょうが、私は判るような気がします。つまり私にも、かつて愛する女性がいたんです。そしてきっと、今でも彼女のことを愛しています。だから、踏ん切りがつかない。これは、あなたの気持ちと同じようだと、私には思われます。違いますか?私は同じだと思う。こんな気持ちで、百合さんに、百合さんの気持ちを受け入れることは、私はしてはいけないことだと感じます。だから、あなたも判ってください」
武野内香奈枝。
やはり、彼には以前に婚約者がいて、今でも忘れられないでいる。
しかしそんなのは、五年も昔のことじゃないか。
僕の百合は、今目の前に、いつでもすぐそこにいるんだ。
「田中さん」
「何です」
「今のような気持ちを、百合さんに伝えたことがあるんですか?」
僕は二年前のことを思い、氏から目をそらした。
あんたには、きっと判らない。
判る訳がない。
「素直に伝えたことがあるんですか?逃げているのは私ではなく、あなたの方じゃないんですか?」
僕はこれと言った返事はしなかった。
ただ、それじゃあと言って、アパートに向かって歩き出した。
僕が逃げてるだって?
そうかも知れない。
はぐらかしているのは僕の方かも知れない。
でも、それが判ったからって、どうしたらいいって言うんだ。
百合は、本気で沢口一郎に惚れているんだ。
別にあんたが、阿保みたいな金持ちでなくたって、そんな事は関係無しに百合はあんたに惚れてるんだ。
帰って買い物袋を見てみると、冷凍うどんは見事にべろんと解けていた。
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