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元朝参りの思い出に捧ぐ

新年おめでとうございます。note新参者でございますが、どうぞ今年もよろしくお願いいたします。

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私の故郷は岩手県沿岸部、釜石市です。大きな製鉄所があり企業城下町でした。珍しい磁気を帯びた鉄鉱石などを産出し、江戸時代からの製鉄の歴史があります。田舎町ではありながら、全国から技術者が集い、深さのある港が大きな輸送船を受け入れることができ、街中で世界中から来た人々を見かけることがありました。世界の経済情勢をもろに受ける街でもありました。

地理的には、低い山脈が西から東へ何本も連なり海へ向かっており、山並みの最後は断崖になっていました。全体が谷底のような細長い形状で平地が少なく、空も細長く感じられるような場所でした。谷底平野という形状であると地理で習いました。

中学三年の大晦日。誰が言い出したものか分からないけれど、除夜の鐘の鳴る頃に、中学校近くの山神さんと呼ばれていた神社に集まることになりました。集まったメンバーの有志が観音様のある岬まで行き、初日の出を拝むという趣旨でした。この初日の出を見に行くことを私たちはガンチョウマイリと呼んでいました。ちょっと詰まってガンチョマイリとも。方言だと思っていましたら、NHKの地方局の元旦のニュースで「今年のガンチョウマイリの人出は....」というフレーズがあり、速攻で辞書を引くと「元朝参り」という正しい日本語であることが確認され驚きました。元旦の朝に日の出を拝みに行くこと、だそうです。

さて、山神さんに大晦日深夜に集まること、家の人から許可が下りない子が続出するかと思いきや、わいわいとたくさん集まりました。20人以上いて驚きました。お喋りしたり、山神さんの焚火で温まったり、お参りしてミカンをもらったり、しばらく過ごして元旦を迎え、10人くらいで海を目指して歩き始めました。

途中にある神社に立ち寄りお参りし、ちょっと大人びた子はお神酒までちょいともらったりしてさ。寄り道しながらかなりの距離を歩きます。釜石駅のところで道が二股に分かれ、まず、大町方面に流れ、大晦日終夜営業の喫茶店で休んだりしながら、尾崎神社を目指しました。この神社は大きな神社で、日本武尊が成敗した龍の尾が祭られています。歴史ある荘厳な神社です。ここにお参りした後、来た道を釜石駅あたりまで戻りそこから観音様のある岬を目指します。眠りに落ちた静かな街を通り抜け歩き続けました。

観音様を祭ったのは石応寺です。石応寺は私の家系の菩提寺です。神社巡りから.…寺。そして日の出を拝む。なんとグルグルに混ぜられた宗教観。日本人、凄い。世界中がこうなれば戦争はなくなるんじゃないかと思うほどに、自由っつーか無頓着。

小学生低学年の頃。父の幼なじみの石応寺の僧侶の夢枕に観音様が立ち、観音像を作るようにお告げがあったそうです。それが魚を抱いて海を見つめる大観音を作るという構想の始まりでした。私の家でもその話し合いがありました。お坊様のあぐらに抱かれて嬉しくて、アタマをペタペタ叩きながら座頭市!と喜んだ記憶があります。両親の山の仲間たちの中には、料亭を営む者、建設業を営む者、銀行員などなど様々な職種の人たちがいて、今でいう町おこし、観光産業の創出という大きな話になっていきました。多くの人々を巻き込んで次第に整っていく構想、事業開始。私は頑張るおじさんたちに、なんだか観音様の慈悲とかけ離れたものになっていないか、そして自然破壊があってはならないと意見をしました。何年かするうちに私は超生意気な小学生に育っていました。おじさんたちは目を泳がせていました。まままま、そんな意見もあるよね、だけど、大勢の人が観音様を拝み慈悲に触れて喜ぶだろうともごもご言っていました。それは本当でした。壮大なプロジェクトでランドマークが形成され、多くの観光客を呼び込むことになりました。

私が中学生になったころには、観音様は白く大きく美しく完成していました。また観音様が住職の夢枕に立ち、足の弱いひとも高台に上がれるようにというお告げがあり、露天のエスカレーターまで出来ていました。

そんな背景があってもなくても、とにかく、てくてく歩き続ける私たち。お喋りしながら楽しく、解放感を味わいながら歩いていました。この地方は東北でありながら降雪が少なく、西の方から吹き降ろしてくる風が冷たい、あるいは海から吹き付けてくる風が冷たいといった土地柄で、大晦日に雪がないこともあるのでした。その年は寒いだけで雪はありませんでした。

私たちは、観音様の足元のデッキから初日の出を見ることが出来ました。みんな受験を控え、祈りました。日の出が何時だったのか記憶があいまいです。

夜通し、休みながらも20キロくらい歩いたと思います。帰り道は10キロくらい。幾人かは家の人が迎えに来て車で帰りました。残りは数人でした。釜石駅まで戻り臨時のバスに遭遇できれば超ラッキー。そうでなければ自宅まで歩かねばなりません。私は家まで歩き通しました。出発点の山神さんから家までだって3キロくらいあるんですけど..…なんという健脚だったことか。すべて歩きとおせば30キロ越え....うへっ

午前九時過ぎだったか十時前に帰宅して、爆睡。
目覚めてから母に、山神さんからの道のりを詳しく話しました。終夜営業をしていた喫茶店は、両親たちが高校の山岳部や、そののちに結成された山岳会で随分とお世話になったお店なのだそうです。両親は笑っていました。

夜遊びなんて知らず、夜の街を歩くなんて未体験で、社宅街で育った中学生たちには冒険のような元朝参りでした。疲れて、疲れて、本当に歩ききれるか少々の不安もあったけど、みんなで楽しく歩きました。

以来、私たちは、それぞれの高校で知り合った友だちなども交えて、大晦日、日付の変わる頃に山神さんに集まりました。私は三度、元朝参りに参加しました。御来光を見たのは最初の一度だけでした。22歳の時、年末年始で帰省していて、ふと思い出して山神さんに行ってみたら、懐かしい面々が結集していました。同窓会を開くなんてことは一度もなかった私たちだけど、この元朝参りがその代わりだったかも知れません。

あれから半世紀。大晦日の山神さんに集まる同級生たちはいるのでしょうか。全国に散った同級生たち。親世代がどんどん少なくなり、東日本大震災で苛烈な津波被害を受けた町。年末年始、静かに過ごしながら、元朝参りを思い出し、祈りを捧げています。



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