ベンゲルと日本、こころの旅
アーセンベンゲルはなぜ日本へ降り立ったのか
それはフットボール界最大の事件が関係している
実業家のベルナールタピはテレビでも人気者となり、仏大統領の後押しで政治家に当選し大臣まで務めた。
市長の懇願で経営難のマルセイユを買収、クリスワドル、フランチェスコリ、ストイコビッチらスター選手を買い漁り国内リーグを5連覇(92-93は剥奪)、ついにはヨーロッパチャンピオンズカップも制した。
タピがマルセイユを買収した翌年ベンゲルは37歳でモナコの監督となり初年度にリーグ優勝をはたした。
その後は3位3位2位2位3位と黄金時代を迎えたマルセイユとしのぎを削った。
モナコでの最終年は9位となったが、チャンピオンズリーグではベスト4に進出した。
ボロプリモラツはベンゲルのもとアーセナルで22年間コーチを務めた。
ボロは元セルビア代表のCBとしてベンゲルがカンヌのアシスタントコーチ時代に知り合った。
8カ国語を話せるといわれた(セルビアクロアチア語フランス語英語日本語ドイツ語スペイン語ポルトガル語イタリア語)ボロの忠誠はベンゲルの信頼厚かった。
ヴァランシエンヌの監督だったボロは、マルセイユから八百長を要請され拒否した選手から相談を受け、おおやけでの告発に至った。
ボロから相談を受けたベンゲルはそれを支持したといわれる。
近年でさえベンゲルは数年前から八百長の確証はあっても証拠がなく、不穏な風潮が蔓延していたと語るにとどめた。
八百長とは関係なくマルセイユは素晴らしい選手たちの偉大なチームだったとフォローさえした。
それだけその時代の風潮のなかでの(勇気が必要であった)告発の影響は大きく、それは現在に至ってもセンシティブな問題であり続ける。
マルセイユのリーグ優勝は剥奪され、2部降格となり、関係者は有罪となり追放処分となった。
なかでもタピは唯一、禁固刑の実刑判決が下された。
タピはその手法から詐欺師といわれた一方国民に人気があり、マルセイユに黄金時代をもたらし恩に感じたひとも多く軋轢がおき、一派は報復を示唆したともいわれる。
ベンゲルの日本行きはそうしたことから物理的な距離をとることと、事実上ベンゲルによるボロプリモラツへの庇護である
94.12ベンゲルは名古屋の監督に就任、ボロをコーチとして迎え入れた。
95.5タピに実刑2年(禁固8ヶ月)の判決が下された。
名古屋との契約にはバイエルンからのオファーがあった場合、退団できるという条件があったとされる。
(ベンゲルにはモナコとの契約最終年にバイエルンからオファーがあったが、モナコは拒否した直後にベンゲルを解任した)
マルセイユでは活躍できなかったドラガンストイコビッチは、タピからは怪我による高額な保険金を受け取る条件として引退をすすめられたが断った。
92ユーロ予選、デンマークをおさえて勝ち抜いたユーゴスラビアは民族紛争による制裁で本戦直前にスウェーデンから強制帰国となった。(代替のデンマークが優勝した)
サビチェビッチやミハイロビッチなどユーゴ全盛の時代、代表のキャプテンで影響力があったストイコビッチは暴動、虐殺からなる激動のユーゴスラビアを体験し生き抜いた存在だった。
ストイコビッチもまたヨーロッパを離れ日本に緊急避難したが、選手生命に関わる怪我、祖国の危機はベンゲルのそれよりも切実だったといえるのかもしれない
マリノスがメディカルチェックで破談になったのち、94.6名古屋に入団したが異文化に馴染めず持て余し退場を繰り返していた。
ベンゲルはストイコビッチについて、初めて会ったときフィジカルはサッカー選手のレベルに達していなかった、メンタルもこのままサッカーを辞めてしまうと思えたほどだったが、
すべては君次第だし、私は君に期待していると話すと真剣にサッカーに取り組んだ。
かなり厳しいトレーニングを課したが、数週間でかつてのコンディションを取り戻したと語った。
浦和とともにリーグのお荷物といわれた名古屋は優勝を競うようになり、天皇杯で初タイトルを獲得した。
ベンゲルはフランスでも日本でもイングランドでもレベルに合った方法が違うだけで、監督のパーソナリティをもとに道を指し示し、チームの長所に合った構成を選択し、選手個々の表現を伸ばした
つまり(それらはあたり前の一般論で)どれだけパーソナリティが優れていたかと、(どんなレベルでも)どれだけチームに自らを捧げたかである
ベンゲルには日本にいる間もイングランド代表のテクニカルディレクターなどいくつかのオファーがあったが時間の経過によりそれも次第に減っていき葛藤を抱えていた。
当初日本滞在の目処を2年としていたが、長くなればそれだけ欧州で忘れさられ、それだけ日本から離れられなくなることを意味していた。
そしてアーセナルからのオファーがきた。
アーセナルはジョージグレアムの後任としてベンゲルを候補としてヒルウッドとも面談していたが、ブルースリオッホを招き失敗していた。
ベンゲルはボロとともに1年半でヨーロッパに戻ることになり、ボロはアーセナルで22年間ベンゲルへの忠誠を誓い続けた。
ストイコビッチもヨーロッパ復帰を画策したがコソボ紛争によって流れ、当初半年間プレーするつもりが引退までの7年間を日本で過ごした。
ベンゲルは日本に救われたと語った
ヨーロッパでの残忍で暴力的なムードから、当時の日本という安全地帯でサッカーに対してひたむきな人々とのふれあいによって、人を信じようというモチベーションを取り戻していったのではないだろうか
ベンゲルは孤立した環境で自分自身と向き合い、自分にとって本当に大切なものの重要性を理解し、より成熟した人間になった
イングランドでのプレッシャーの荒波にも一喜一憂しなくなった、それは日本で経験したこころの平和によるものだと語った
そうして準備が整ったことがアーセナルでの成功に結びついている
その成功はクラブを世界的な人気クラブに押し上げ、日本にいるわたしたちにまで届いた
クラブの教育的なアプローチはさまざまなことを示唆してくれた、そういったアプローチが無くならないことを切に願う
わたしたちはそれぞれの生活のなかにあっても、ある時にはあたまのなかをアーセナルでいっぱいにすることができた
ある時にはこころを少しだけ暖めて、また生活に戻っていけた
それはアーセナルという避難所であり、日本に安寧を求めたベンゲルからのささやかな贈り物である
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