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映画日記 「小学校 ~それは小さな社会」鑑賞

せっかくNOTE始めたので、
映画日記も開始してみます。

本日の鑑賞記録は
小学校 ~それは小さな社会~」 です。
山崎エマ監督・編集の、ドキュメンタリーです。

私は、見る映画を決めるとき、下調べをしません。
タイトル、ポスターやフライヤーの雰囲気、時間が合うかどうかで決めてしまいます。

本は書評を読むことも多いのですが、
映画は鑑賞して面白ければ批評を探してみることもある、ぐらいで。

何となく見に行っても、残念に思って帰ることが少ないからなんです。
むしろ、いろんな期待を持って見に行って、がっかりする経験の方が多くて(笑)。

これも飛び込んだ感じでしたが、とても良かったです。

公立小学校に入学する1年生たち、そして、彼らを助け、見守り、一緒に成長する6年生たちの1年間の記録。

入学前の期待や不安。
親も。先生も。

最初から、うるうるするシーン連発。
思い出すことがいっぱいありすぎて。

たった1年で、彼らはみんな「成長」する。とんでもなく。
先生も。彼らの成長を支えながら、格闘しながら。
ナレーションは入れないでくれて、彼らの生の声を丁寧に紡いでくれていて、ハラハラもドキドキも、ほっこりも号泣も、ぎゅうぎゅうに詰まっていました。

途中、校長?だかわからないんですが、
連帯責任を例に、そういう教育、学校がいじめのもとを作ってきた、というようなことを仰るんです。はっとしました。

私が子どもの頃、間違いなく先生たちは、当たり前のように、天下の宝刀のように「連帯責任」という言葉を持ち出しました。
「個」より「全体」を重視するよう、私たちを縛った、呪いの言葉です。

社会生活において、協調性を持つことは、必要だし大事なこと、に違いありませんが、私たちは時に脅迫され、意志をはく奪され、自分で考えること、意見を伝えることを拒絶されました。

それが本当に、私たちのためである、教育的措置である、と先生方は思っていたのでしょうか。
いや、大抵の場合「先生の都合」であったように感じます。
全員をなるべく安易に、平らかに統率するための術ですね。

軍隊と同じ方式ですもんね。

それでも、戦後まもなくのような、どの家も大家族が当たり前の子どもたちなら、それなりにたくましく、受け入れ、受け流すこともできたかもしれません。
我々はもう、核家族で、少ないきょうだいの中で育って、いきなり強制や制限の多い学校という社会の中に放り込まれて戸惑う世代で、必死に従うしかありませんでした。

「いじめ」を初めて見たのは3年生。
何が行われているのか理解が及ばず、得体のしれない恐怖に、ただ毎日怯えていました。
ある時その自分を恥じ、二度と見て見ぬふりなどしないと決心した私は、以後、戦うようになりました。
どこでも誰でも、いじめだと直感したら戦う。
いじめられているのが仲良しの子じゃなくても。
それが原因だかわからないけれど、中学時代は私自身がハブられもして、精神的に追い込まれたりしました。

でも。
今思えば、戦うべきは同級生じゃなかった、むしろ大人たちだったんだな、と思うんです。
彼らは明らかに、私たちの中にあるヒエラルキーを利用して統制している側面があった。
教師がいじめに気付かないとか、そういう鈍感な話じゃなかった。
そう思えてなりません。

だからどうしたらいいのか、って答えを導き出すのは簡単ではありませんけれど。
教師だって、誰でも、人間的にも教育者としても未熟なところから始まるわけですものね。きっと、毎日が答え探しです。

長々と自分語りみたいになりましたが、
心を揺さぶられた、ということです。

ありがとう、小学生たち!

「小学校 ~それは小さな社会~」





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