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だれのせいでもなく、泉の精

この際ついでにもう一つ、子供向け番組からの家訓みたいなものを。

それは
アンパンマンに出てくるキャラクター
泉の精のセリフ
「誰のせい?泉のせい」
です。

これは今になって思うと、
親が子供を見守る上での、
ネガティブケイパビリティを支えてくれていたと感じています。

とりあえずいいんですよ。
いずみのせいで。

泉の精なので、当然泉に物を落とすと出てくるのですが、

物を落とした責任を言い争っている時に、
「誰のせいーー?
 いずみのせいぃー」

と、言いながらの登場と共に争いが止まるので、
一発で使い方が分かりました。

責任の追求を保留し、次の選択に進むための合言葉だと。

例えば、私が仕事から帰って散らかってる部屋を見て
「もーこれ誰のせい」と言うと、
「いずみのせいー」と返ってきて、

「いずみのせいかー。
 いやいや。 さて、」
と、ワンクッションおけるのが良かったです。

相手が子供といえども、
黙られると無視されてるみたいで腹が立つのが、
1人で日々闘うお母さんというもの。

だからといって、子供を追い込みたい訳でもなく、なにか言ってもらえればいいんです。

声優さんが上手で、言い方での怒りが削ぎ方が絶妙だったので、
大人達もちょいちょい真似してました。

その後に某妖怪ウォッチでも、
「妖怪のーせいかもね」と、妖怪のせいにするのが流行りましたが、

はるかに先達だし、
妖怪ウォッチみたいな、
ちょっとドヤッ、みたいな鼻につく感じがないのも良かった。

これらだけによらず、
責任の棚上げルーティンは、多分確実に需要があるのですが、
しかし、なんでも良いわけではないと思います。

別に責任を問わなくても先に進める事と、

本当に責任を問わないといけない事とを、

きちんと区別して考えないといけないと思います。

今なんだか世の中が、
どうでもいい前者にかまけすぎて、

複雑で突き詰めにくい後者にかけるべきエネルギーをロスしている気がしています。

いちいち個人の「責任」なんて問わなくて良いことは
いずみのせい、にしておいて、

本当に考えないといけないことを、
深く覗き込むための
時間や、心のエネルギーを保持したいものだと思います。

 








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