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短篇小説『雨』
『雨』
雨の音が耳にまとわりついて離れない。
授業を終えて家に帰ってきてもそれはしつこく部屋の中まで追ってきていた。本を読むにもテレビを見るにも雨はしとしとと降り続いた。
それはまるで胸の中に雲がかかり、霧が立ち込めているような感じだった。「僕の心に雨が降っている」。その感情が、あたかも鼓膜を実際に震わせて耳腔に反響してくるように感じられる。耳に響く雨音はつーんとした刺激となって脳を犯し、僕の思考に靄をかけた。
「雨は蕭々と降っている」
三好達治を口にして、僕はたばこに手をかける。
「雨は蕭々と降っている」
雨の冷気に煙を吐き出すと、それは細い糸のように立ち上る。
「雨は蕭々と降っている」
阿蘇山の噴煙も、このように寂しげだろうか。
昔いつかは忘れたが、今のような雨を友人と共有したことがあった。
その時の僕も、三好を思い出していたのだ。でも果たして、その時の自分のことが思い出せない。
その日は、テレビシリーズのストーリーを補完する、劇場アニメを見に行ったのだ。
その時彼はこう言った。
「本編の時系列より前になっていたの分かった?」
そうだ。思い出した。その時の天気は間違いなく晴れで、雨が降っていたのは僕の心の中だけだった。僕は作中の時系列に気がつかなかった。
実際に雨に降られて三好の詩を思い出したのは、それより後の事だった。
母親の付き添いで深夜の病院に行ったときが正確である。
母親は僕に言った。
「悪いね」
僕は黙ってかぶりを振った。
違う。その時ではない。
僕の心が決定的に雨模様になったのはもっと前だった。
三好達治を知る前から僕は雨に惹かれていて、三好の詩は「心の雨」を形象する呪文となって僕をここまで縛ってきたのだ。
一瞬だけ強まった雨音が、僕の思考を押し流した。
顔に当たる冷気がさっきより冷たい。
半分にまで減ったたばこの火を見つめると、焼かれて炭になりたい気持ちがする。
息を吐いてからたばこを思い切り吸い込み肺まで入れて飲み下す。
今はただ、その苦みが心のつかえを覆って深く沁みとおってくるのが心地よい。
頭の芯にぴりっと鈍い痛みを感じ始めた時、雨は依然と降り続いていた。