文芸講演⑴「寂聴文学と吉行淳之介―「大根鍋の約束」の周辺」大石征也(文学研究家・記念会副会長)
先日6月3日、瀬戸内寂聴記念会は徳島県立文学書道館にて文芸講演会を開催した。講演者は文学研究家の大石征也氏と、作家の米本浩二氏。note寂聴記念会は、お二人の講演をダイジェスト版で2回に渡り掲載する。
大石征也氏
(1972年徳島県石井町生まれ。文学研究家。川端康成をはじめ、近現代の文学者を研究している。とくしま文学賞では、文芸評論部門の最優秀賞を受賞。瀬戸内寂聴記念会の副会長)
講演のタイトルは、「寂聴文学と吉行淳之介―「大根鍋の約束」の周辺」と付けました。「大根鍋の約束」というのは、吉行氏が1994年に70歳で亡くなった時に、瀬戸内さんが文芸雑誌「群像」に氏の追悼文を、そのタイトルで書かれた。ふたりで大根鍋を囲む約束だったが果たせなかった、というエッセイでした。
1924年、吉行氏が大正13年生まれ、瀬戸内さんが1922年大正11年で、吉行氏が2年後輩。文壇に登場したのは吉行氏が先で、芥川賞も『驟雨』という小説で取られています。
追悼文「大根鍋の約束」ですが、一番手に取りやすいのは『人が好き』という講談社文庫から出ている文庫本で、これに追悼文が載っています。
さて日本文学史の中で、戦後派文学という流れがあります。第一次戦後派と、それを受けて第二次戦後派というのが登場。その後の第三の新人という作家たちのグループに、吉行淳之介も入っていました。吉行氏は第三の新人の代表格でもあったのです。
では、近現代文学のなかで、瀬戸内文学を文芸シーンのどこに位置付けるのかは、これからも課題になってくると思う。
私の考えでは、瀬戸内さんの文学というものは、大きな単独者と言うか、一人一派、どこの流派やカテゴリーに含めることの出来ない大きな存在だと考えます。
でも、どうして瀬戸内文学が、こんなにも大きな広がりを持ちえたのか?
瀬戸内さんが文壇デビューして、『女子大生・曲愛玲』という小説で、新潮の同人雑誌賞からデビューしますけど、次の作品が『花芯』という問題作だった。その小説が発表されたときに、文壇でバッシングされたんです。5年間文芸誌から干されたということを、何度もエッセイやご自身の自伝でお書きになっている。
その体験が彼女をどういう作家にしたか。
瀬戸内さんは純文学を目指して、文芸誌の新人賞に通って純文学雑誌だけにお書きになって大成された作家ではないということが、彼女の器を大きくしたのではないでしょうか。
『花芯』でバッシングされたことによって、純文学の文壇から干された。では、その間何もしなかったのではなくて、どちらかというとエンターテインメント系の雑誌の方に、作品を発表していくのです。
そういう体験が、瀬戸内さんの作品を、純文学だけを突き詰めて、一般大衆受けしないものにしなかった。つまり、『花芯』での体験がエンターテインメント性を豊かにたたえつつ、なおかつ文学の高みを目指す方向を、たしかなものにしたのです。
まとめると瀬戸内さんは、第三の新人という、あるいは第二次戦後派というものに含めることできない、大きな単独者として位置づけられる方だと思います。
最後にもう一度『花芯』に話を戻すと、あれはエロ小説、子宮小説だ、と叩かれ騒がれたけれど、この小説は悪くない、本格小説で素晴らしい小説だ、と認めてくれたのも吉行淳之介でした。
吉行氏が『花芯』を認めてくれたことで、瀬戸内さんと吉行氏のあいだに、互いをリスペクトしあう熱い絆が生まれたと考えます。
『花芯』のテーマは、女性の自立した、男性に束縛されない自分を生ききる意味での性、と言ってよろしいでしょう。
吉行淳之介という芥川賞作家がこの作品を認めたのも、吉行氏自身が性を追求する作家だった、ということもあると思います。なので、吉行氏はそんな『花芯』を読んで、これは立派なものだ、ということがすぐわかったのではないかと、私は思うのです。