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【エッセイ】#02 鈍考

ブックディレクターの幅允孝さんが、ポッドキャスト番組の「中川政七商店ラジオ」で、京都のとある施設の話をしていた。その施設の名前が「鈍考」だという。
ラジオ聴きながら、恥ずかしながら私はブックディレクターという存在も、幅允孝さんという人のことも、堀部安嗣さんが設計をしたその「鈍考」という施設も、何一つ知らなかった。
だからこそラジオでされたその話がとても興味深かった。とにかく行ってみたいと思った。
それから一ヶ月後の年末のある日に予約を取った。

最寄駅からJRに乗り、京都で市営地下鉄に乗り換え松ケ崎駅まで向かった。そこから叡電の駅がある一乗寺までわざわざ歩いて行ったのは、私がただ歩くのが好きだからだけではない。その辺り一帯は初めて親元を離れて暮らし始めた街でもあるからだった。
休みに入って人気のない京都工芸繊維大学を横目に歩き、寂しげな冬の高瀬川を渡ると、一乗寺のしっとりとした街の雰囲気が出迎える。この街は京都の中でもまた少し違った雰囲気を漂わせている。
ラーメン屋の排気ダクトは野晒しに壁を這い、ごうごうと音を立てながらスープの匂いを街に放つ。ゲオやTSUTAYAがどんどんと消えてゆく世の中で、今だに健在のビデオワンは私が初めて自分のお金でDVDを借りた店だ。夢を語れ、一乗寺ブギーを通り過ぎて、恵文社に入ると、あの頃は気づけなかった選書の良さにお手上げとなった。
パンのち晴れで明日のパンを買って、つばめカフェに入って持ってきた文庫を読む。思わず最高の午前を過ごしてしまった。
昼になると叡電に乗ってやってきた妻と合流し、天天有に向かった。甘みの濃い中華そばは、本みりんを鍋に逆さにして突っ込んで作っているスープのせいなのだと、カウンターでその光景を垣間見て初めて知った。替え玉を悩むそばから妻に止められて、いつも止めてくれてありがとうと感謝を述べた。

タイトルは「鈍考」である。このままではただの「一乗寺さんはほんまサイコー」になりかねない。なので、腹も膨れたからようやく目的地へと足を運んだ。
乗ったのは一両編成の叡山電鉄。平日の車内はがらがらだった。
緩やかな傾斜の道を北に登ってゆくと街の密度が薄れてゆく。色褪せた木々や山並みが近くなる。終点から一駅手前の三岳八幡駅で降りると、さらに住宅街を登ってやってきた。民家の間に一軒、こちらにそっと手を差し伸べるような佇まいで建っているのその施設が「鈍考」だった。
道路からセットバックした位置に立つボリュームの抑えられた二階建ての建物は、一階を白い左官の外壁、二階を黒の板張りで顔をこちらに向け、瓦屋根を二方に伸ばしている。左に寄せて軒下の影に据えられた木製の玄関扉から緩やかな勾配を降るようにして大谷石の階段アプローチが手前に伸びており、脇には明るい苔で地を被覆し、中木のいくつかが枝を横に伸ばしてアプローチを覆う。人を招き入れる設えというのはこういうことのなのかと、階段の一段目の手前に立って背筋が伸びる。
段を踏んで進み、玄関扉を開けて中に入る。
視線を掴んだのは遠くに映る針葉樹、何本もの太く縦に真っ直ぐの幹を開口部が囲っており、そこまでの長さのある空間の脇の壁を、上から下まで手前から奥まで、本で埋められた棚がずらりと伸びている。天井と床の木板の張り目や幅は鏡写しのように揃えられ、視線の伸びを補うように軒が森に向かって伸びている。照明は床を点々と、ぼんやりと、照らす。
おそらく十五畳ほどの空間だと思う。中には四角の空間と一面の壁を埋める本棚。縁側と畳の小上がりとカウンター。それだけの空間。その空間がじっと黙ったままそこにある。

「鈍考」というのは施設の名だけでない。きっとその空間における体験も指すのだろう。

正しくは、入れ替わり制の私設図書館と併設された喫茶を指し、仕組みは、定員6名90分、その枠が一日の中で3つ入れ替わりで使う。つまり時間で区切られた空間を贅沢に6人のみで貸切で味わうのだ。
時間の使い方は図書館と同じ。本を読み、景色を眺め、考え事をし、……。静けさの邪魔をしなければきっと大体なんでも良い。
壁一面には本棚が据えられ、大小様々な本がずらりと並ぶ。
その本たちこそが、ブックディレクターである幅允孝さんが選びそこに置いたもの。彼が選んだ本を前にし、その中からまた私たちが選び引き抜いて空間に腰掛け手の上で開く。

本棚はある程度のジャンルごとに区切られ、本がいくつも並べられている。
私がまず初めに手に取ったのは『余白の芸術』(
李禹煥 著)だった。
ここでこの本がどんな本だったのかを書くつもりはない。
なぜその本を手に取ったのか、この空間でその本を読むということを通して私が何を体感したかを書く、ということにしたい。
数ある本のうち『余白の芸術』に目が止まったのは、背表紙に書かれたタイトルのバランスの良さ。それと程よい分厚さ。おそらく日頃手に取らないであろうという直感の中に含まれる好奇心、そこに手が伸び、指で掴む。ざらっとした表面の紙の質感に満足し、両隣にもたしか同じ著書の本があったのだけども、「余白」という言葉が空間に漂う静けさに重なりながら、胸にも迫る。それを引き抜くと重さがある。90分。不意に限られた時間が過ぎり、分厚さ、早速読み切ることが前提でないと知らされたような気になる。日頃手に取らないであろう一冊、恥ずかしながら著者が誰なのか知りさえしない一冊を手に持ち、自然と足が向いたのは、空間の外へだった。室内も十分に美しかった。しかしそれに勝るほどの美しさが切り取られた開口部の向こうに映っていて惹き込まれた。
隠し框で綺麗にサッシ枠の隠された掃き出し窓をスライドさせて開け、縁側に出て庇を支える細い柱を背もたれに腰掛けた。本を開き、数羽の鳥の鳴く声が聞こえ、遠くの家で鳴る鹿おどし、小川のちょろちょろと流れる音があった。
身体の熱が外気によってすうっと奪われてゆき、頭が冷やされてゆく。
『余白の芸術』というタイトルだったからだろう。文字を追いながら、文章の塊の縁とページの紙の縁の間にある何も書かれていない白い空白の部分、その幅がとても良いなと思った。ページの縁の外側には庭の砂利や苔や向こうの針葉樹の木々が広がっており、その余白を挟んで内側には文字の群れがある。間の幅が絶妙で、屋外で文章を読んでいるという私自身の身体感覚と等しいように感じ、場とシンクロしながら読んでいるような気になった。
限られた90分という時間だから、ペラペラとめくり気になったタイトルの掲げられた文節で手を止めて読み込み、また次までをペラペラとめくる。そうしたこれまでに無い読書の仕方も新鮮で悪くないように感じていた。

本を読んでいると珈琲が運ばれてきた。人差し指の入らないタイプのカップとソーサーは私の苦手なタイプだった。昔からこのタイプのカップをどう摘めば上手く珈琲が飲めるのかわからなかった。子供の頭を上から鷲掴みにするようにして持ち、指の隙間から唇をつけて啜る。
甘みの一切を削ぎ、酸味や華やかな香りも排除した深煎りは、じんと沈黙を横に強く引き伸ばしたような強い苦味だった。
この美しく静寂な場で、どんな珈琲が出てくるのか、珈琲好きの私だから実はさりげなく気にしていたのだが、なるほど、この場の底に敷かれた沈黙を表すかのような珈琲かと唸らされた。お見事。

次に本を手に取るためにその場を立ち、掃き出し窓を引いて中に戻ると、他の五人が思いのままに腰掛けてそれぞれに本を手にしている。それとここの人が一人、カウンターで珈琲を淹れてくれている。
本棚を眺めて、本の全てが幅允孝さんによって選ばれたものたちなのだということを考える。
なんとも贅沢なことをしている。
読書をさせる。という言葉がふっと頭に過った。私は彼によって読書をさせられている。時間も場も本自体も与えられて。そのために自宅から二時間もかかる道のりを越えて。やられたなあ、と思った。

その中から手に取ったのは『建築を気持ちで考える』(堀部安嗣 著)という本だった。私はその抽象的な表紙の本を手に取り、窓際の座り心地の良い椅子に腰掛けた。
ここは堀部安嗣さんが手がけた空間だから手に取ったのは言うまでもないが、その人が手がけた空間の中で、その人の書いた文章を読みながら、その人が建築や街や細部をどのように頭の中で考えているか、を読む。
多重構造の中での読書体験はまるでカビゴンの腹の中でカビゴンが書いたカビゴンの眠りに関する文章を読むみたいで面白いな、と思った。しかし読み始めるとそれほど特別な感覚というわけでもない。けども、文章に書かれた要点を確かめるためにふと文章から目を離し、目の前の空間に目を向ける。開口部の向こうにある自然に目をやり、先ほど耳にした音たちを思い出し、天井の板張りに目を向け、また文章に戻る。文字たちから堀部さんの頭の中に入り込んで、設計案件の写真や経験談、その隙間にまたちらと空間に目をやる。
ふと、幅さんはこうした本を読むための場を堀部さんに作ってもらおうと考えて実際にお願いしたのだな、と思った。それはすごく本のことを考えている人の考えだと、体で染み染みと感じた。

残りは20分ほどになっていた。
本棚に本を戻すと、左端の文学のゾーンへと体を滑らせる。どうせなら読んだことのない本をという思いはまだ繋がっていて、手に取ったのは詩集だった。
『手紙』(谷川俊太郎 著)は、表紙が年月のせいか和紙のような質感になっていて、お絵描きのタッチの花や茎、菱形のカラフルな紋様でできた温かな装丁だった。
私は詩を殆ど読んでこなかった。しかし本を開いて一つ目に目にした詩にあまりにもすんなりと心を掴まれた。
それから殆ど詩と一対一のような感覚で、読み進めていった。限られた時間の中でどこまで読めるのだろうかと先を気にしながら、一つ一つの詩を前にした。そういう時間だった。
あっという間だった。お時間になりました、という声を後ろに聞いて、私はその本を閉じた。こんな読書体験は初めてだと思った。

読書体験というのは、殆どその本に書かれている内容によるものだと思っていた。書かれている文字や文の支配力が全てを占めるようなものだと思っていた。
私がこの施設と限られた時間の中で得た読書体験は、少なくとも半分以上の要素に文字や文章以外のもの、空間や時間などの中にある身体的な感覚が作用していた。それありきの読書体験だった。
空間の持つ静けさや美しさが、頭の中を入ってくる文字と思考だけの接続箇所だけを残して余白だらけの場にし、
限られた時間が読む順序や部分の選択を変え、
耳に入る自然の音や人の動く音や、珈琲の風味がほんの少し思考に手を添えてくる。
そうして自分が読んでいるという状況が、どんどんと単純なのものへと変化してゆき、
その中で目にした谷川さんの詩が、水みたいに無為になった私の身体に、すうっと降りてゆくようだった。
こんな読書体験は初めてだった。

そこを出ると外は冬の冷たさで、住宅街だった。
今から時間をかけて家に帰る。自分はここに読書をしに来たのだと、改めて思った。

#02 鈍考

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