戦国武将・織田家筆頭家老・鬼柴田の異名の北陸方面軍団長【柴田勝家】
髭を生やして腹が出た豪快な中年のおっさん。不器用で情に厚い。今日の柴田勝家または権六のキャラ設定。
大永二年(1522)に誕生。織田直参の武将の中で最も身長が高かったといわれる。
公表データでは185センチ。戦国武将トータルでもトップクラスに長身。
柴田勝家としても有名だが、戦国テーマの作品では権六の名前を使われることも多い。信長に仕え活躍した武将のなかでも年長で、晩年は信長の筆頭家老となる。織田四天王のひとりにも数えられる。
本能寺で信長が討たれた後に、勝家と秀吉との後継者争いに発展するも秀吉に敗北して散った。
信長の父の信秀に目をかけられ信秀に仕えるが、信秀の死後は信長の弟の信行の家老となる。
勝家らは信行を後継者にするべくクーデターを謀るが、家督争いは信長の勝利に終わり、勝家は信長に降伏した。
創業期の信長軍での勝家の勇敢な戦いぶりは、鬼柴田と恐れられるほどだった。
桶狭間の戦い、犬山城の戦いで武功を挙げ、信長の家臣となって十年、永禄十一年(1568)には重臣として認められる。
その後も姉川の戦い、長島一向一揆、長篠の戦いと参戦して武功を挙げる。天正三年(1575)には、北陸方面司令官として越前一向一揆を鎮圧すると越前四十九万石の大名となる。
天正十年(1582)には上杉謙信の子、景勝の領土へ進軍し魚津城を攻略した。決着がついたのが6月3日とされ、その前日の6月2日に本能寺の変が起こっていた。
勝家が信長の死の知らせを聞いたのが6月5日以降ではないかといわれ、上杉からの追撃も警戒せねばならず、その間に毛利攻めを中断して、畿内へ強軍した秀吉が明智光秀を山崎の戦いで討ち取った。
6月27日に信長の後継者を決めるための清洲会議に参加する。秀吉、勝家のほかに丹羽長秀、池田恒興による会談で、勝家は三男信孝を推挙し秀吉は信長とともに殺害された長男信忠の子の三法師を推挙した。長秀が秀吉の推薦に賛成して三法師が後継者と決められた。
清洲会議の翌年、勝家と秀吉の間で賤ヶ岳の戦いが勃発。賤ヶ岳七本槍をはじめ、秀吉の子飼いの小姓衆、福島正則、加藤清正、石田三成、大谷吉継らが鮮烈なデビューを果たす。その一方で前田利家に離脱され大敗を喫した勝家はお市とともに自害した。
フロイスは、最も勇敢な武将であり果敢な人物と勝家を評した。
勝家の晩年は信長の重臣としてライバルの秀吉や光秀の智将っぷりに対して、猪突猛進で勇敢だけど計略にハマって凡ミスしてしまう感じ。
智将タイプは魅力的だけど、光秀の本能寺や秀吉の晩年の粛清や思い上がりには悪印象も抱く。
でも情にアツそうでちょっと抜けてそうなダサさのあるおっさん勝家は嫌うポイントがない。
戦で敗れて自刃して散る戦国武将らしい潔い最期、信長の創業からの重臣で信長を追うように亡くなった。
信長の妹のお市の方を娶って、ご満悦であったり、秀吉に落とされて市の三人の娘を託すと、自身は市とともに北ノ庄城で散っていく。
北陸では、与力として支えた前田利家にはオヤジ殿と慕われた。信頼出来る与力の利家が同年代で家族ぐるみの付き合いのあった秀吉と戦うことを放棄して戦線離脱しても、咎めたり恨んだりする様子が描かれることがない。
なんかやっぱり情に厚くていいオヤジなんやなぁ、権六さん。弱点なんやろーけど、愛すべき弱点。まぁ創作の柴田勝家のイメージやけど。
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