悪法と公理としての法(2024年のデルタ133)
めんどくさいので書いとく
「ふふ。結局手を貸すんですね」
いや~ソシオパスの相手だったから普通の人向けにね
さて、僕は『悪法も法なり』ってタイプじゃなく、悪法には立ち向かい改善すべきだという派なんだけど、悪法ってどうやって見分けるか
これについて少し語っとこうかなって
「ですか。ソシオパスの相手じゃなく普通の人向けですね」
んだ
やっぱり、公理としての法には従わなければならないと思う訳だ
でも、悪法には立ち向かうべきという考えなんだわな
なら、どういう風に悪法を見分けるか
簡単に言えばどのような法が公理なのか
という話な訳だ
人間の美徳から判断してやればいい
ここでは、分りやすく五常の徳に合わせて語っておこう
法に置いての仁義礼智信とは
仁:遍く公利公益に適っているか
義:社会正義として正しいか
礼:感情によらず糺せているか
智:十分な議論がなされ、抜け道がない。また、公理として説明できるか
信:公理として信をおけるか
3次元で言えばこれが揃っとくと公理と言えるだろう
「徳目で判断するんですね?」
そそ、徳っていうのは善の理屈だからね。法というものをどういった尺度で測るかって事の一例だね
これは僕の考えた公理としての法の判別方法だが、一例に過ぎない
自分なりに考えてみると面白いと思うよ
これが揃うように法は制定するべきだし、また悪法はこれが揃っていないという事になる
「成る程、基本的に律法は守らなければならないが‥‥っていう話ですね」
そそ、世の中には悪法が出来るケースがあるからね
「そこで、善の理屈である徳目を使用して悪法か否かを判断すると」
そそ、悪法であれば戦わねばならないからね
「ですね。ありがとうございました」
はい。アーメン
「アーメン」