見出し画像

境界線



ググると、土地や物事を分けるための線。だそう。

この線からそっちはあなたのもので、ここからここまでは私のね。という、揉めないためのもの。
一軒家ごとにすごい分かりやすくフェンスとか置いてあるアレ。逆にそうでもしないと人間はなんでもかんでも揉めちゃうのだな。

少し前からよく聞く自分軸や他人軸もそう。
心の中の境界線。
ただこれは目に見えないから土地よりも難しく感じるし揉める人がいる。

でも本当は自分のだけはくっきり見えるはずで、それを自認できると他者と良好な関係が築ける。



たとえば不機嫌な人が近くにいる時


他人のご機嫌に左右されてしまう人、悲しくなってしまう人、嫌な気持ちになる人は境界線が曖昧だ。
一本の直線ではなく波形みたいなイメージ。
相手の影響も受けるし自分も干渉してしまう。
相手に対して「チッ、そういうのやめろよ」と思っているのだ。

「そんな事はないです、嫌なことはとことん避けてます」、「私からは何も言いません無害です」という人もいるかもしれないが、目に入るもの、耳に入るもの全てを遮断して生きていくのはなかなか難しいのではないだろうか。他人と全く関わらず生きていくのも。
そして、結局遮断しきれずにたまに入ってきた「他人の情報」に影響を受ける。
普段避けているだけに倍のダメージになったりする。
私は誰にでも良い人なのになぜ!とか思う。
そんで、人間めんどくせーと思考が飛躍する。


何年か前に、繊細さんやHSPと呼ばれる性質の人の本が出回った時、私はまさに悩んでいた。
すぐに読み「これって私じゃん」と思った。同時に明確な解決策はないのかと少し落ち込んだ。
「病気ではない性質」、「イヤホンをする」、「眼鏡の度をあえて下げる」、とかそういったことが書いてあった。
でもそれ、根本的解決ではない。「私HSPなので〜」と言って他人に忖度してもらいたいわけでもない。同じ性質の人達と「あるある」を持ち寄り群れたいわけでもない。

ただ、不機嫌を撒き散らす人に不満は持っていた。
「あなたがそれをしなければこちらがこんな思いをすることもないのに」と思っていた。
実はこれも他責の、人をコントロールしようとしている部類の思考に入る。

そこでするべきなのは、その人への「なんでこんなに怒るんだろう、怒る自分を見つめればいいのに」ではない。他人は変えられないからほっとけ。
この怒る人を見て、私の心がこんなに波立つのはなぜだろう」と自己分析することだ。

私の場合は、自分の自信のなさだった。
常に人の基準で自分の価値を決めていたから人の不機嫌で自分が責められているような、近くにいる私が何かしたかな?などと考えていた。
母が不機嫌を出して人をコントロールしようとする人だったからというのもあるかもしれない。無意識に幼少期の悲しみを思い出していた。
でもいつまでも過去の親のせいにし続けて生きていくわけにもいかない。自分で整理をつけて決別しなくてはいけない。
そういうのも、自分と向き合わないと気づけない。気づけないといつまでも他人の不機嫌に振り回され続ける。

「私はむしろ人に優しいのに、なぜ自分を変えるの?変わらなくてはいけないのはそういう人でしょ?」と思うかもしれない。
でも自分の優しさと他人に振り回されることは全くの別物だ。
だって、現に優しい人のはずなのにそうなっている。人は変えられないのだ。
他人の機嫌に振り回される人がフォーカスすべきなのは自分への「なぜ」そうなるのか、のみ。
繊細だから振り回されるのではない。繊細だから人より敏感に感じ取るのではない。
健全な境界線が自分に確立していないから、本当の意味で自分をよく知らないから、そうなるのだ。

他人の機嫌は他人のものなので、なにか直接言われてはじめてそのことについて考えればいい。それまでは完全スルー。
それも聞き入れるのは「それやめて」とかの要望だけで、呟きみたいな独り言はスルーしていいのだ。
「ふーん、この人はそう思ってんのか」でいい。

例えば私のnoteに対して「こいつなんの肩書きもないくせに能書きたれやがって」と思う人がいても、「ふーん、そっか。この人はそう思うんだ」で終わり。
直接言われたら、さすがに面食らったりするかもしれないが、でも、今の私なら自分はそうは思わないって言うと思う。思わないから書いてるって。言い返さない温和=HSPなわけじゃない。
自分の性質を知るのはいいが、型に嵌めるくらいなら知らないほうがいい。
……と、今なら思う。

でも、私は本当にこんな性格だった。そのままうじうじと考えて腐って地獄を見た。
もう少し早く自分と向き合えていれば地獄は見ずに済んだのにと思うと、noteを書かずにはいられない。
ただそれだけで書いている。
過去の私のような人は案外多いからだ。


私は私のまま、生きやすくなりたかった。
本を読むだけでは、結局そういう性質だと認識した上で生きづらさを抱えて生きていかねばならないのか?となり、読む前と変わるのは「自分の性質に名称があると知る」ことのみ。


「えっ、今日あの人機嫌悪いな……嫌だな
これが、その時の私の思考。一日中その人を意識して少しでも近くにいないでいられるように離れる。そしてその自分の行動にストレスを感じて疲れる。

「えっ、今日あの人機嫌悪いな……なにかあったのかな? まあいっか
これが今の私の思考。

生きてたら泣きたい日もあるし嫌なこともあってつらい思いを抱える時はある。
「そんな日もあるよね〜」且つ、それをみんな自分の中で御して切り替えて集団生活を送ろうと努力しているわけで。

それをできない人に自分の心を砕く必要は全くないのだ。
(親しい友人が辛そうにしていた時とかはべつだよ)


他人に何をする・しないで自分を好きにならない

例えば、「人に親切な自分が好き」「人に嘘をつかない」ということで自分の価値を決めていると、何かあってそれどころではなくなった時や、親切にしたいけど範囲が限られていた時に、自分にガッカリしてしまう。

親切にできるのは自分に余裕がある時だと知っていればそんなことにはならない。
嘘にも様々あるし、一番大事なのは自分を欺かないことだ。

他人から返ってくる感謝や評価で自分の価値を決めるやり方は、他者ありきなのでいつか必ず自分の首を絞める。

自分の価値は人に決められるものじゃない。

自分が構築していくものだ。境界線も同じ。

不機嫌ハラスメントなんぞに負けない自己を確立して「いえーい!」とピースしながら不機嫌すら巻き込み楽しくしてやろう。

優しい人にこそ、そうやって生きて欲しい。

場を圧倒するご機嫌さんになろう。

あなたは今日も素晴らしいよ。


いいなと思ったら応援しよう!