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われわれ宗教的な人間たち——ピエール・ルジャンドルにおける〈イメージ〉、そして〈テクスト〉へ(4):木野人文学会第10回研究会『H imagine』Vol.1 特集:スピる連動企画

2024年12月14日に木野人文学会で、同人誌『H imagine』の編集委員が、Vol.1で寄せられたテクストを基に発表を、そのプロモーションも兼ねて行いました。

 木野人文学会は、京都精華大学の学生が中心となって設立した学会であり、それ故にその名前もこの大学が位置する「木野」という地域名から取って名付けられています。設立当初は京都精華大学の学生が多数所属していましたが、現在は他大学の方々、また社会人の方も複数参加しています。そして、この学会の理念は「個人の分断と孤立が進行する現代社会のなかで、人文知の学びを目的とする共同体」であり、また「参加者それぞれの所属や専攻・職業の垣根を超えた、研究・交流・情報共有の促進」を目的としています。

 今回はこの木野人文学会という場を借りて、『H imagine』の創刊記念ということで、編集委員による発表をさせて頂きました。この機会を設けて頂き木野人文学会の皆様には感謝申し上げます。その発表内容をnoteにて公開します。

 前回の続きから、曲田尚生による「われわれ宗教的な人間たち——ピエール・ルジャンドルにおける〈イメージ〉、そして〈テクスト〉へ」(4)です。これで最後となります。

(1)はこちら→われわれ宗教的な人間たち——ピエール・ルジャンドルにおける〈イメージ〉、そして〈テクスト〉へ(1):木野人文学会第10回研究会『H imagine』Vol.1 特集:スピる連動企画|『H imagine』
(2)はこちら→われわれ宗教的な人間たち——ピエール・ルジャンドルにおける〈イメージ〉、そして〈テクスト〉へ(2):木野人文学会第10回研究会『H imagine』Vol.1 特集:スピる連動企画|『H imagine』
(3)はこちら→われわれ宗教的な人間たち——ピエール・ルジャンドルにおける〈イメージ〉、そして〈テクスト〉へ(3):木野人文学会第10回研究会『H imagine』Vol.1 特集:スピる連動企画|『H imagine』


 いいでしょうか。ここまで来たわれわれなら分かるはずです。つまり、実証主義や世俗化など、それらは西方キリスト教圏内の西洋から生まれた、キリスト教的なひとつの文化である、と。他の野蛮とされる文化と変わらず、です。そういった見下した視点もある意味キリスト教的なのです。結局それが普及したのは、また自らを真理とする「真理の帝国」による武力によってであり、その文化が優れているというわけではありません。念のため言っておきますが、これは私が言っていることではない、西洋人であるピエール・ルジャンドルが述べていることなのです。
 また、時間もなく、あまりにも専門的過ぎるので、ここでは割愛しますが、この実証主義を生み出した「中世解釈者革命」それ自体、宗教的、儀礼的な手続きで行われてもいます。ただそれは先に引用した佐々木中の文章を読めばなんとなく分かるかもしれませんが。いいでしょうか、実証主義、合理性、科学は、儀礼を伴って生まれたということ、それを踏まえれば、反復して行われる美的な儀礼という行為失くして、何かを証明するための準拠であったり、合理性、客観性、または絶対的な真理、理性という原理、そして社会そのものすら成り立たなくなることが分かるでしょう。例えば、現代の裁判の方法においてもやはり儀礼的な面があります。スーツを着たり黒い法服をまとったりと、そうした儀式めいた厳粛な場が設けられています。美的なそういう場所で罪が言い渡されるからこそ、人は納得できるようになる。そこでみんなだらしない格好をしていたらなんとなく納得いかないだろうし、ある日LINEでお前死刑だよと言われても嫌でしょう。また、既に見たように、客観的に書かなければならないとされる論文を書く行為も儀礼のひとつです。「中世解釈者革命」から続く儀礼です。何も不思議はないですよ。そもそも何かを読み、書く行為すら昔から続く儀礼です。ルジャンドルはこう言います。
 

準拠の獲得というものをまずもってわれわれは美学的な獲得として理解しなければならない。
 
美学的操作は儀礼的反復である、それによって否定性が人間化された表象のステータスを得て、差異化する争点を取り囲み、支配し、心地よくさせるために、基礎となる象徴的な練り上げを引き起こすことになる。
 
人がそしてわれわれがまだ一度も見たことのないのは——私の学生においては馴染み深いこの考察が私から離れない——社会が音楽や歌なしに、法的に決められた挙式なしには統治しないのであり、そうした挙式は無言の儀礼的利用になっていた。

Pierre legendre, LeçonⅥ.Les enfants du texte. Étude sur la fonction parentale des État, Paris, Fayard, 1992, p.251

 話を戻しましょう。要するに、現代において近代化された産業社会にいようとも、それはそもそも宗教性を廃したと自称するだけに過ぎないキリスト教の基盤の上に建っているということです。こういった明確な世俗化、政教分離というのはキリスト教社会から生まれたものなのですから。しかし、この文化は宗教ではないから普遍的であると自らを認め、自らのドグマ性を無視し、冷凍食品のように手軽にあらゆる世界に輸出されていった。この点においてはやはり西洋は他の文化との特殊な差異があるでしょう。
 しかし既に前回述べ、ここでも少し確認したように、ひとつひとつの「文化」は〈鏡〉です。われわれは親の顔を見て育つというより、文化という〈鏡〉を見て育つのでした。その〈鏡〉には「私である」と「私でない」という矛盾、非合理性を、証明され得ない真理として、盲目的にそのまま引き受けなくてはならないというもの、宗教的な教義のようなもの、だがそこからことばを話すことができるし、そこからしか理性が始まらないもの、つまりドグマがあります。そういった意味で、これまで確認した実証主義にも宗教的なドグマがある。しかしそれを西洋は眼を背けて見ようとしません。ではどうなるのか。そう、近代化、産業化という宗教に、他の宗教や文化を改宗させるようになってしまうのです。それも無理やりに、です。故に日本近代における日本回帰という運動も、その誕生を理解できるということでは必然的な出来事ですし、現代ではイスラームの問題が挙がりましょう。ルジャンドルは西洋による近代化の押し付けにより彼らが回帰してくることを予見していましたから、そう「イスラームは戻ってくる」「手に刃物を持って」、と。
 自らのドグマ性を知らないふりをして、他の地域に普遍的な発展と称して近代化を押しつけることは、血なまぐさい宗教戦争を帯びたものになっていくのです。また儀礼的な宗教を否定するのはローマ法と同じことをしている、つまり反ユダヤ的でもあるのです。ですから現代ではその危険性が分かりやすいように、ルジャンドルはこう言えるのでしょう。
 

みずからがドグマ的であることを知らない新たなドグマ性は全体主義的である。

ピエール・ルジャンドル、西谷修、橋本一径訳『第Ⅱ講 真理の帝国 産業的ドグマ入門』2006年、人文書院、253頁、Pierre legendre, LeçonⅡ. L’Empire de la vérité. Introduction aux espaces dogmatiques industriels, Paris, Fayard ,p.195

  何度も強調しますが、ルジャンドルはこの点において、現代ではイスラームに目を向けているのです。
さて、西洋的な野蛮さから脱却するためにわれわれはどうすればいいのでしょうか。ルジャンドルのテクストを引きましょう。
 

自らの親の子どもたちである前に、われわれはイメージの、われわれが生まれたところの文化によって文明化された大文字の〈イメージ〉の子どもである。この〈イメージ〉、身元不明の姿形が肉体を手に入れるのは、われわれにことばをかける何らかのものにおいて、われわれを永久に特徴づけるシンボルにおいてである、それを私はここで〈テクスト〉と呼ぶ。

Pierre legendre, LeçonⅥ. Les enfants du texte. Étude sur la fonction parentale des État, Paris, Fayard, 1992, p.55

テクストというものが何であるかを知るために、言語のこの関係を発見しようと試みなければならない。言語の関係、それはつまり、テクストとして見做すべき身体の演出である。

Pierre legendre, Paroles poètiques èchappèes du texte. Leçon sur la communication industrielle. Paris, Seuil, 1982, p55 


 話す動物たるわれわれにとって〈鏡〉に映る〈イメージ〉こそ親であることは既に述べた。このイメージは文化であり、肉体を持つ(prendre corps:具体性をなす、目鼻がつくという意味を敢えて直訳した)のは、〈テクスト〉においてである、と。そしてそのテクストとは「身体の演出」である、と。
 例えば、キリスト教圏内の人々の文化において言えば、「神の似姿」という文明化された〈イメージ〉のもとで、その〈イメージ〉を証拠として、ルジャンドル的に言うなら〈準拠〉として、自らの同一性をその人々は示すのです。つまり神の似姿という文化の親のもとで、西洋的な人々は育ちます。そしてその〈イメージ〉が肉体を持つ、具体的になるのは〈テクスト〉であり、それは単なる文書としてのテクストではなく、「身体の演出」であると述べている。このように詩的な言葉の組み立て方ではありますが、同時にルジャンドルは論理的でもあります。このギャップに彼の難解さがあると私は思いますが、同時に彼のテクストに惹かれる要因でもあります。
 話を戻しましょう。いいでしょうか。つまり、ある文化のもとで人間が同一性を持つことができるのは、身体を、反復するという儀礼的に、また美的に演出するということにおいて達成されるです。そして、この「身体の演出」が〈テクスト〉でもあります。つまり、われわれの身体は書かれている、ということです。当然ですね、何も奇妙なことはありません。何故なら、われわれは話す動物なのですから、どこまでいっても人間にとっては、ことばが重要なのであり、われわれはことばなのです。つまり、ルジャンドルが言いたいことは、「中世解釈者革命」によって齎された「書かれたものだけが文書である」という価値観を脱して、「ひとりひとりの人間を文化という舞台で踊る〈テクスト〉として読むこと」が重要なのだということです。ルジャンドルの

本、ダンス、エンブレムそして儀礼は同じ書くことの現象の異文である。

Pierre legendre, LeçonⅥ. Les enfants du texte. Étude sur la fonction parentale des État, Paris, Fayard, 1992, p.60

という言葉はなんと論理的なのでしょうか。
 そのような西洋的な合理性という宗教の野蛮さから脱するための観点から、われわれは他者とその文化を知ろうとしなくてはならないのです。そして「神の似姿」と同様に、それぞれどのようにして、どのようなイメージのもとで、その文化にとっての合理性が始まるか、あらゆる「なぜ」を問うことばを発するための理性原理が作られているか、肉体が儀礼的に演出されているかを知らなくてはならない。このようにして、人間に何が書かれているか、人間という一冊の踊る本を読まなくてはならなない。人間を読書するんです。予め述べておいた「あらゆる文化を同じ地平線におく」というのは実はこういうことです。この価値観のもとで果たされるのです。これがドグマ人類学の視点なのです。そこから私が得たのはわれわれ人間にとって、ひとりひとりの、ひとつひとつの営為が、読書や散歩、料理、絵を描くこと、電車に乗ることなどすべてが、読書であり執筆であるという眼なのです。
 さて、最後は少々厚かましいですが、紹介がてら私が寄稿したテクストから引用して終わろうと思います。
 

はじめに言葉ありきと言った者はやはり正しい。「「テクスト」は「文書」であることを必要としない」と、そう考えてみようではないか。われわれはひとつひとつの肉体としてのテクストを読むのである。そこには何が書かれているだろうか。あの他者は、どういった言葉で調教され、どんな美しいダンスが書かれて踊っているのだろうか。さて私はこれからどういったダンスを踊り書くのだろうか……。このような考え方は、言葉ではないもの、言葉のないもの、既に書いたものを除けば例えばそう、暴力にさえも言葉を与え、それを理解し解決の道を拓こうとする平和のための努力なのだ。
あらゆる肉体は生という脚で、堆積した言葉の大地を踊り読み、躍り書き、言葉の灰として死に積もり、再びそこから生まれてまた死に積もってゆく。まずはこのことを念頭に置かなければならない。

『H imagine Vol.1「スピる」』曲田尚生「『切りとれ、あの祈る手を 〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話』とともに夜を迎えて」177頁


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