
写真で、記憶を上塗りする。
思い出を振り返るとき、「苦いこと」ばかり思い出してしまうのは、どうしてだろう。
楽しいことはたくさんあったのに。
それらを思い出そうとすると、それよりも失敗や、後悔や、悲しみや、傷つきばかりが目についてしまう。
人は不幸の方に意識が向きがちだ、というのはどこかで聞いたことがある。
そうだとしても、こんなにあたたかな環境で生きてきたにもかかわらず、「辛かった」「イヤだった」と思ってばかりの自分が、悲劇のヒロインみたいで、情けない。
そんなわたしでも、大学生活4年間の思い出をふりかえると、「楽しかった!」と心の底から言い切れる。
腹を抱えて笑ったこと、涙が出るほど喜んだこと、楽しかった過去をたくさん思い出せる。
親元を離れて、初めての一人暮らし。
とはいっても、オンボロ寮生活からスタートしたので、正確には一人ではなかったが。
しかし寮にいたおかげで、生涯の友と出会うこともでき、そこから濃密で弾けるような大学生活は幕を開けた。
箸が落ちても笑い、友達がひとこと言うたびに、転げ回って喜ぶようなわたしであった。
寮の友達、学部の友達、サークルの友達。
わたしは本当に、友人関係に恵まれた。
とはいえ、楽しくないことだってあったはずだ。
バイトはクビになるし、単位は落とすし、人に騙され、物を盗まれ、散々なこともしでかした。
酒の失敗もある。
でも、それら以上に、「楽しさ」で記憶が上塗りされているのは、なぜか?
それは、学生時代に大量に撮った「写真」のおかげかもしれない。
◇
学生時代、携帯やデジカメを常に持ち歩き、たくさん写真を撮った。
わたしだけでなく、友人たちみんながそうしていた。
いちぼん仲のよかったC子はマメな子で、みんなのデータを共有して、整理し、アルバムフォルダを作ってくれた。
そのデータが貯まると、「上映会」が開かれる。
大好きな音楽を部屋中に流して、大きめのテレビで、スライドショー式に映すのだ。
これがまあ、盛り上がった。
みんな、持ち寄ったお菓子を食べ、酒を飲みながら、「これ、あのときのあれね!」「この顔ウケる!」と指差して笑った。
思い出を共有する、振り返り上映会は、何度も開催された。
上映会そのものが、わたしの大学生活を象徴する思い出のひとつとなるくらいに。
4年分の写真データは、莫大なものとなり、今もあの頃使っていた外付けハードディスクに眠っている。
あの上映会があったから、わたしの記憶は「楽しい」で塗りつぶされている。
鮮明に思い出せる光景は、どれもたしかに写真で見たものだ。
寮生活、ルームシェア、バイト、サークル、旅行。
どれもこれもが、色鮮やかにわたしの脳内に記録され、いつのまにか記憶ごと、すっかり入れ替わってしまったようなのだ。
しかしそれは、幸運なことのように思えた。
学生時代を終えて、仕事を始めてからというものの、写真を撮ることはほとんどなくなった。
就職一年目。
プライベーとの写真は、たったの3枚だ。
どれも、夫が死んだ魚のような顔で、焼肉やラーメンを食べているものだった。
これでは、記憶の上塗りは、不可能である。
そして今。
わたしは毎日育児に追われ、時の流れの過ぎるままに、生きている。
暮らしはあっという間に、通り過ぎていく。
そんな中で、自分の写った写真は数えるほどしかない。
どれも、子どもとのツーショット自撮り。
画面いっぱいの我が子の横で、顔半分しか写らないわたし。
しかしそれもまた、わたしだろう。
歳をとり、他人に写真を撮られるのがますますイヤになってきているせいもある。
唯一頼めそうな夫は、写真が引くほど下手くそなので、わたしを撮るといつも、ドアップの死んだ顔か、横向きの猫背だ。
なけなしの自尊心が崩れるので、あまり撮られたくない。
撮るなら、美人に撮ってくれ。
そう言ったときの、夫の「ありのままやん」という顔は、見なかったことにした。
話がそれた。
ようするに、写真こそ、つらい記憶を上塗りする有効な手段だって話だ。
つらい、つまらない、退屈、飽きた。
ここから抜け出したい。
楽しいことがしたい。
自分のペースで、自分らしく生きたい。
家にこもって育児ばかりしていると、鬱々とそんなことばかり考えてしまう。
そんなときわたしは、写真を見返す。
写真共有アプリ「みてね」に載せる写真の、9.9割は息子たちだ。
かわいい息子の成長する姿はほほえましく、事前に心が癒される。
と同時に、このかわいさを生み出してきたのは、わたしであると、再認識する。
すると、少し気持ちが晴れる。
つらいばかり育児が、前向きで光の指すような光景に塗り替えられていく。
記憶の上塗りだ。
しかしそれは、ごまかしでも嘘でもない。
だって、写真にあるのは事実なのだから。
写真で楽しそうな顔をする息子の笑顔は、ホンモノなのだから。
わたしは今日も、明日も、データがパンパンになったこの携帯で、夫や息子たちを撮る。
しかし、そこにわたしはいない。
わたしは写っていなくても、そこにわたしの幸せはある。
家族の幸せな顔を写真におさめて、そこにわたしを見出す。
彼らの目線の先には、わたしがいる。
きっとその顔も、笑顔だろう。