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「花を飾る人」へのあこがれ。

花を飾った。

夫が飲み会でもらってきた小さな花束を、玄関先にポイッと投げたまんまにしていて、それがあまりに不憫だったので、拾い上げた。

ピンク色の可憐なチューリップと、白くて小さなカスミ草。
萎れてぺしゃんこになった包装をほどき、くるくる巻いてあるリボンやゴムやティッシュなどをどかして、さあ花瓶とおもって、花瓶がないことに気がついた。

そうだ。
うちにはこんな、可憐な花を生けるような花瓶はない。



花を飾るのに、あこがれていた。

美しい本にも、ていねいな暮らしをするYouTuberも、みんな玄関やリビングに花を飾っている。
花を飾る人=すてきな人。
そんな構図が頭の中にできあがってから、とにかく「花を飾る」という欲だけで、「花、花」と言っている時期があった。


しかし、夫に「るいちゃん、花が好きなの?」と聞かれ、しゅんとなる。

ううん、ぜんぜん。
興味ない。

正確には、興味はあって、かわいいし美しいとおもうんだけど、それ以上はない。
庭の畑や花壇に花を植えても、すぐに枯らしてしまうし、ときどきもらう豪華な花束も、内心「どうしようこれ」と困ってしまうくらい。

でも、小学校教諭たるもの、花束をもらう機会は必ずやってくる。
卒業生を送り出したとき、学校を異動するとき、抱えきれないくらい立派な花束をもらった瞬間は、やっぱり照れくさくて、誇らしいのだ。


__あれ?待てよ。
そういえば、花瓶を買ったかもしれない。

チューリップとカスミ草を握りしめたまま、わたしは送別会でもらった花束を生けるために、一度だけ花瓶を買ったのを思い出した。

数年前の、3月。
花束をもらったあと、花瓶を求めて町中を彷徨った、あの記憶。
けっきょく、どの店でも程よい花瓶を見つけられなくて、花束がダメになる前に急いでAmazonで買ったんだっけ。
あの花瓶は、どこへしまっただろうか。


がさごそとクローゼットを漁り、ようやく重たい塊を見つけた。
新聞でぐるぐる巻きにされたそれは、鈍器のように硬くて重い。

開けてみると、学校の教室でアジサイを飾るのきに使うくらいの、大きくてゴツゴツしたガラスの花瓶がでてきた。

おい、数年前のわたし。
花瓶買うセンスなさすぎだろ。
でかすぎるって。
教壇用じゃん、これ。

しかし、うちにはそれしかない。
花を飾るのにあこがれているだけで、花をぜんぜん好きでもないわたしの家には、そんな身分不相応な花瓶しかない。

しかたなく、ゴツゴツガラスの真ん中に空いた穴に、ザーッと水を入れて、そこにチューリップとカスミ草をさす。

アンバランス。
しかし、以外と悪くない。
ごつい花瓶には、おなじくらいごつい量の花を入れなければおかしいと思い込んでいたけど、すかすかの花がガラス花瓶の上で散らばっているようすは、氷の上に咲く野生の花みたいで、ぴかぴかとかわいらしい。

わたしは満足して、それを玄関にドカリと飾った。
いまだに飾られている鏡餅の横に、春らしいピンク色のチューリップが、ドカリ。

夫は数日たっても、花にまったく気づかなかったが、長男はすぐに「あれ、花があるね!」と目を光らせてくれた。
飾ってよかった。
長男のその言葉が、わたしをピンと喜ばせてくれた。




「花を飾る」のに憧れるのは、単にそんな生活が羨ましいからだろうか。

花を飾る人って、なんだかしとやかで、落ち着いていて、心に余裕がありそうな感じがする。
だからわたしも、花を飾りたいのだろうか。
そういう人に、なりたくて。


花を飾ると、めんどくさい。
水を変えなきゃいけないし、散る花びらも集めなきゃならないし。
でも、飾る人はそれを含めて、花を愛おしいと思うのだろう。


花を愛してもいないのに、花を飾れる人になりたいというのは、自分に嘘をついているみたいで、居心地が悪い。
でも、本当のところを言うならば、「花を愛せる人」になってみたい。

季節がめぐるたびに、花屋さんで花を選んだり、特別なことがあった帰り道に、花束を買ったりして。
一輪挿しとか、もっと小ぶりな花瓶をいくつも持っていて、「この花にぴったりなのは、どの花瓶かしら」とか言って、鼻歌交じりに花をさす。
家の窓辺や、ふとした隅っこに、そっと飾れている花。

そんな生活がしたいとおもうのは、嘘じゃない。
ミーハーでも、見栄でもない。
本物の「花を飾る人」に、いつかなってみたいとおもうのは、本当なのだ。

しばらくは、このピンクのチューリップとカスミ草を大事にしよう。
枯れてしまったら、そのあとすぐに花瓶をしまうんじゃなくて、次の花を選んでみてもいい。

花を飾る生活。
憧れから、もう少しこちらへ。

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