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どうして、わたしが「育児」の記事を書くのか。


よく、「育児」の記事を書く。

専門家でもないし、「役立ち情報まとめ」とかでもない。
ただ、うちの長男や次男のエピソードを、ちまりちまりと書いている。
それだけだ。

そんな、とっても「個人的」な育児記事を、何のために書いているのか。



ひとつは、「自分のため」である。

育児の日々は、必ず忘れてしまう。
記録は、写真もあるし、動画もある。
でも、ささやかな日常や、目に見えない成長を残すのに、「言葉」や「文章」は何よりふさわしい。

あるいは、育児をしてきた「わたし」の記録でもある。
どういうことに悩んで、辛い思いをして、苦労してきたのか。
それは、写真や動画にはのこらない。
動画には、いつも楽しそうなわたしの笑い声だけが入っている。
もちろん、それだけでも、じゅうぶんだけど。


いつかおばあちゃんになったとき。
息子の手が離れ、夫もいなくなり、ひとりぼっちになったとき。
わたしは、わたしの育児記事を読んで、「ああ、こんなにがんばってきたんだなあ」と自分自身を労わってやりたい。
そんな未来のために、書いている。


しかし、最近もうひとつ、理由を思いついた。
専門家でもない、育児の経験が豊富なわけでもない、どこにでもいる一般人の「わたし」が、「note」に育児の記事を書く理由。


それは、「育児は、見えにくい」からだ。

育児は、孤独だ。
育児がこんなに大変で、しんどくて、泣きたくなるようなものだなんて、「親」になるまでまったく知らなかった。

いつも、明るい面ばかり見ていた。
育児で苦労して、「子どもと一緒にいるのが辛い」という考えがあることすら、知らなかった。
ニュースで、我が子を殺してしまう人を見たときは、その人が「異常者」なんだとおもっていた。


でも、違う。
ぜんぜん、違う。

育児は、ほんとうに見えにくいのだ。
子育てでは、子どものためだと思って、家に引きこもって、じっとしていなきゃいけない場面がたくさんある。

今でこそ、わたしはどんどん外へ出て行けるようになったけど、それは声をかけてくれた友達や、親切であったかい子育てセンターの先生方のおかげであって。
それがなかったら、わたしはずっと家に居続けたかもしれない。

不安で、誰かに聞いてみたくて、でも我が子に何かあったらと思うと、怖くて。
とてもじゃないけど、ひとりで外になんか行けなかった。
ほんとうは、子どもが小さい時ほど、外へ出たい。
よその子がどうなのか、世間がどうなのか。
育児のことも、母としてのふるまいも、聞いて、見て、学びたいことがたくさんあるのに。
外に出られずに、いつもひとりぼっちで。

そんなとき、ネットだけが頼りだった。


嘘みたいな情報もあった。
振り回されることも多かった。
でも、子育てで右も左もわからなかったとき、育児の記事に何度も救われた。

それも、「一般論」や「まとめ記事」じゃない。
とあるお母さんの、とあるお子さんの、とても個人的な記事に救われてきたのだ。

うちの場合は、オムツはこうで…。
うちの子は、こういう離乳食は食べなくて…。
うちは生まれたときから、便が出にくくて…。
うちは両親と疎遠で、毎日ワンオペで…。

そういう「うちの場合」な記事は、具体的で、細かくて、あくまで「うちの場合にしか通じない」ようなことなのだけど。
そうやって、いくつものパターンがあると知ったとき、ようやく「ああ、それぞれ違っていいんだな」とおもえたのだ。


育児書は、「離乳食はこう!オムツはこう!」みたいに「正解」や「平均」が書いてある。
だから、それに当てはまらないと、とてつもなく不安になった。

長男は、体重も少なかったし、ご飯も食べないし、ウンチも自力では出せない。
一体、何をどう間違ったのだろうと思い悩んだのに、コロナ禍で聞きに行くこともままならなかった。

そういうとき、「うちも食べません」とか「こういうのなら食べたよ」とか「我が家の綿棒浣腸のやり方」とか、そんな情報がどれほどわたしを支えてくれたか。


だから、わたしも育児記事を書く。
「うちの場合」を書くのだ。

うちの長男、うちの次男。
彼らにしか当てはまらないのかもしれないけど、彼らのことをなるべく具体的に、細かく、エピソードをあげて、書いている。


「育児」では、病院や保健師さんに相談するほどではないような、細かくて、どうでもいいようなことなんだけど、気になる!
というようなことが、たくさんある。
そのヒントになれば、とても嬉しい。

どこかの誰かが、知らないところで、「あ、こんなんでいいんだ」と思えるように。
「悩んでいたのは、わたしだけじゃなかったんだ」と、肩の力を抜いてもらえるように。
「苦しいのは、わたしのせいじゃないんだ」と、育児の苦労や苦しみや孤独感を、いっしょに共有できますように。

そんな気持ちで、今日も書く。

これは、わたしを救ってくれた記事への、恩返しみたいなものなのだ。


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