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本が、最後まで読めない。


最後まで読み切るには、何が必要だろう。


わたしは、本を最後まで読めないことが多い。
小説でも、ビジネス本でも、エッセイでも、最後まで辿り着ける本と、そうでない本がある。

何がちがうんだろう。
本の内容が合わないのか、わたしの体調や生活の問題なのか。
はたまた「本とは、そういうものだ」と、割り切ってしまってもいいのだろうか。

みんなは、本を最後まで読むのだろうか。





一度読むのをやめてしまうと、読み直すハードルが、ぐんと高くなる。

先月読んでいた、村上春樹の『世界の終りとハード・ボイルド・ワンダーランド』。
下巻の半ばまで読んで、手離してしまった。
ちょっと暗いシーンが続いて、気が滅入ってきていたのだ。
「ここらでちょっと、違う世界を浴びようかな」と一旦やめたら、すっかり読み直すのが億劫になった。

まず、ストーリーを覚えていない。
続きを読むときには、中途半端なところからスタートする羽目になるので、「この際、もうストーリーを終えなくてもいいや!」という覚悟で読み直すことになる。

そこまでして、今読みたいか?
そう自分に問いかけると、答えはNO。
だから、延々と放置されている。



エッセイ本もそう。
読んでも読まなくてもいい、という温度感が心地いいエッセイたちは、ある程度読んで満足すると、そこで読むのをやめてしまう。

でも、読み切れるものもある。
だから、その違いが自分でもよく分からない。

「つまらないから」というひとことじゃ、済まないのだ。
心底「つまらない」とおもったら、そりゃあ読まないだろうけど、それなりに楽しんでいたのに、続かないのだ。
読みかけの本は、ちょっと消化不良のまま「読書記録」に名を残す。


そもそも、本って絶対に、読み終えなければならないのだろうか。

ミステリー小説は、最後まで読まないと事件解決に至らないのだろうから、やっぱり読み終えなければ、「読んだ」と言いづらい。
でも、ビジネス本なんかはむしろ、目次から必要なところを掻い摘んで読むことも多いし、「はじめに」に著者が「読みたいところだけ読んで」と書いていたりする。

そう思うと、本というのは、わたしが思うほど「読み終える」ことに、重きを置いていないのかもしれない。


以前読んだ、青山南さんの『本は眺めたり触ったりが楽しい』という本にも、「読み終える」ことについて、あれこれ書いてあった。

もちろん、読むのを途中でやめた本なら、いくらでもある。山のようにある。でも、それらは、読むのはやめた!と断固決意したうえで読むのをやめた本ではなくて、なんだか読む気がしなくなったなあ、と曖昧な気持ちでいるうちに、なんとなくずるずる読まなくなったという本だ。
(中略)
決意して読むのをやめることができないのは、こっちの心がさもしいから、ということになりそうだ。貧乏性のあらわれだ、と。

同書、p.73


たしかに。
わたしも、なんとなく読まなくなったケースが多い。

「つまんね!」と投げ出したことはあんまりなくて、それよりも「あとでいいかなあ、でもなあ」とか「眠いし、明日でいいかあ」などと、もじもじ悩みながら、手を離してしまって、そこから再スタートができないのだ。

昔は、「もったいないから」という理由で、根気強くしがみついたりしていたけど、最近はそれもなく。
読みたいだけ読んで、おしまい。

うーん、ちょっともったいないな。


なにか「目標」があれば、ちゃんと読み終えられるかもしれない。

読書は、受け身じゃできない。
自分から、前のめりに読むための「理由」がいる。

読み切って、内容を誰かに伝えなきゃならないとか、どこかでまとめてプレゼンしなきゃいけないとか、仕事で書評を書かなきゃいけないとか。
「中途半端は許されない」という状況が、本を最後まで読ませるエネルギーをくれるのかも。



わたしの読書は、趣味だ。
だから、読み終えても読み終えなくても、自由である。

買って放置しても、積読になっても。
本は、本。
私が買った本のままだ。
「読みたい」と思った本に、変わりはない。

だから、「損をした!」という感覚が薄い。
まだ、たまに思うときがあるけど。
それでも、本棚に置いていて、数か月、数年ごしに読んだ本だってあるわけだし。

だから、今読み終えなくてもいいのかな。
嘘をついて「読んだ」ことにしなくたっていい。
「読みかけ」でも、立派な読書だ。

その本の魅力を、思う存分引き出せる日が、きっとまた来る。
そのときまで、本棚で待っていてもらおう。


読みかけの本たち。
またいつか。


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