傷つけたかもしれない自分に、傷ついている。
誰かに言われたことより、言ってしまったことばかり、覚えている。
つい口が滑って、いらぬことを言ってしまった。
言うべきじゃない人に、言ってしまった。
言い方に、棘があったかもしれない。
嫌味に聞こえたかもしれない。
会話を終え、家に帰宅すると、そんなことばかり考える。
くよくよと、いつまでもいじけている。
わたしが相手に言われたことは、肯定的におもえることばかりで、「やっぱり友達は優しいなあ」とか、「あの人は賢くてすてきだなあ」とか、「いい情報を教えてもらった」とかで、ほくほくしているのに。
わたしの方は、相手の悩みをうまく聞くこともできず、沈黙がこわくて、ポンポン自分のことばかり話しちゃって。
はあ。
もう、会話するのイヤだな。
だれと話しても、マンツーマンであればあるほど、会話のあとは「後悔」が残る。
相手が悪いのではない。
わたしの、心持ちの問題なのだ。
◇◇◇
昔、追い込まれすぎて、友達にひどいことを言ったことがある。
大学のゼミの友達で、その子の卒論がぜんぜん進まないことについて、なぜかわたしが追い詰められていた。
ゼミの先生から、何度も何度も「アイツを何とかしてやってくれ」と責められ、焦りと苛立ちに飲み込まれる。
その時点で、先生に矛先を向けたらよかったのに。
わたしは、頑張っていないように見える友達に腹を立て、卒論発表会を終えたあとそのまま、「迷惑だった!」と低い声で叫んだ。
あのときの、あの子の申し訳なさそうな顔。
あの子は、あれが精一杯だったのかもしれないし、友達の卒論が進もうが進むまいが、わたしには関係なかったのに。
帰宅後、すぐに我に返って、謝りに行った。
「ごめんなさい」を伝えにいくなんて、小学生みたいだとおもったけど。
そうするしか思いつかなくて。
友達は「いいよ、こっちこそごめん」と言ってくれたが、それ以来、気まずくなってしまって、連絡をとっていない。
わたしが、関係を崩したのか。
それとも、その程度の関係だったのか。
どのみち崩れる関係だったとしたら、放っておけばよかった。
やっぱり、余計なことを言ったとおもう。
そして、そういう苦い記憶はというのは、何年経っても、消えてくれない。
「言ってしまった側」の思い出ばかり、たまっていくのは、どうしてだろう。
幼馴染にやってしまったひどいこと。
部活の仲間に言ってしまった余計なこと。
先輩に言うべきではなかったのに、不用意な発言をしてしまったこと。
そのたびにわたしは、「なんて口が軽いんだろう、ばか」と反省する。
「口は災いのもと」と、何度もつぶやく。
でも、また繰り返す。
何度も、何度も。
いつか、ほんとうに取りかえしのつかないようなことを言ってしまうのではないか。
それを思うと、背筋が寒くて、とても会話に満足できないのだ。
たぶん。
わたしは「ひどいことを言ったかもしれない自分」に、傷ついているんだとおもう。
ほんとうな、良好でおだやかな人間関係を築ける人になりたかった。
だれとでも話せて、聞き上手で、話がおもしろくて、だれも傷つけないような。
だけど、現実のわたしは、人見知りで、聞くのに耐えられなくなり、話を盛ってしまうし、ときどき、ひどいことを言っているのだ。
ほんとうに、ひどいことを言ったのか。
それを確かめる術はないのだけど。
でも、会話したあと後悔していること自体も、失礼なので、なんとかやめたい。
◇◇◇
「ピース」の又吉直樹さんが書いた『月と散文』というエッセイ本に、似たような話が出てきた。
『「繊細だと自分で主張する人は繊細じゃない」と馬鹿が言う』というタイトルの文章。
たった2ページの短い文章に、わたしの気持ちが、どれほど救われたか。
”「自分と他者」という存在が等価であることを重んじるあまりに”と書いてあるように、わたしは他者に重心を傾けすぎるあまり、自分までグラグラと揺らいでいるのかもしれない。
相手を、相手を、とつぶやくわりに、自分の保身で手一杯だし。
それなら、はじめから「自分」のほうに重心が傾いていることを、受け入れたい。
それでも、歳を重ねるごとに、じわりじわりと後悔は小さく、薄くなってきている。
まわりにいる、たくさんの親切で優しい人たちのおかげだ。
そして、そんな人たちとの出会いで、変わりかけている自分も、感じている。
会話。
会話をもっと、気持ちよく。
出会って、話して、帰宅したあと「ああ!今日は良い一日になった!」って、胸を広げて心からそう思えるような。
そんな人生に、なればいいと願う。
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