チープでメモ的な勝手に哲学 #007
「わかりやすい文章」ってなんだろう?
今年から勤めた版元で、改めて書籍編集をして
著者の原稿を確認しているときに、フッと頭に浮かんできた疑問。
半分もしくはほとんど素人な書き手である執筆者の原稿を
自分はじゃんじゃんリライトする編集者だ。
もちろん、著者にその旨を伝えた上で、
つまり、「あなたの文章はわかりにくい」とストレートに言い、
リライトの許可を得てやっていることだが、
添削先生よろしくほとんどを書き換えてしまうため、
著者を憤慨させることもしばしばだ。
でも、「わかりにくい文章」を「わかりやすい文章」に書き換えることは
至極、当然のことであり、それが編集者の仕事だと思っていた。
自分が編集者の師匠だったと思っている人が
編集の基本心得として最初に教えてくれたことが
「中学生が一度読んで理解できるのがわかりやすい文章」だった。
当然、そういう心持ちでいろ、ということなのだが
いつしか自分の中では「わかりにくい文章=駄文」というのが常識になっていた。
で、今、何人かの著者の原稿が届き、それを読んでいるが
それらは自分にとって「駄文」に属している。
だから、何回かの書き直しを依頼しているが
自分が思った方向に書き上がってくることは
ほぼ皆無である。
で、俺がリライトしちゃうのである。
リライトを本気でやると
非常に手間がかかり、無駄な時間を費やしていると自覚することが多いが
これじゃ何も伝わらねえよっていう文章があまりにも多くて
気になって仕方がなく、刊行までのスケジュールを無視して(勝手に遅らせて)まで
リライトをしてしまう。
が、今は「わかりやすい文章」に何の意味があるのかがわからなくなっているのだ。
武田砂鉄さんの著作にも、そういうタイトルのものがあるし、
内田樹さんはずっと「わかりやすい」ことに対して疑問を呈し、
普段眼にすること少ない言葉や熟語の書き換えはおろか、
ルビ(ふりがな)をふることも許さないと
どこかで書いていた(そんな提案をする編集者を信用しない姿勢であるそうだ)。
今、自分もそんな気持ちになっている。
わかりやすい文章こそ駄文ではないのか、
わかりやすい文章による弊害があるのではないか。
そう感じるようになっている。
で、短歌である。
自分にとってわかりにくい文章(?)といえば
短歌や俳句、詩であった。
日本語の文法を無視し、作者にしかわからない世界を
何の説明もなしに放り投げている。
初めから万人に受け入れられることを想定していない、
いや、理解されることを拒否したような姿勢。
それらに対して、勝手にハードルの高さを感じ、
短歌や俳句、詩から距離をとっていた。
いや、違うな。
短歌や俳句、詩を理解できない自分が嫌だった。
文芸のセンスのなさを突きつけられているようで。
ゆえに詩的表現や散文的な小説も避けていた。
それが変わるきっかけをつくってくれたのが
タイトル写真の作品である。
わかりやすさに疑問を抱き始めていなかったら
これまで通り、決して手にすることはなかっただろう。
自分にとってわかりにくいというのはどういうことか。
駄文ではないわかりにくい文章とは何か?
写真の本は、自分が気になっている版元の1つが出しているものだったこともあり、
今の自分の思考とマッチしたのだと思う。ごく自然に手に取っていた。
自分にとって短歌はわかりにくいものだという前提がある。
なので、わかろうとせずに、読んだ時の直感で好きか嫌いかを決めつけることにした。
この構えは自分にとって新鮮で、そして正解だった。
「何じゃあ、こりゃあ!」の連続。
不条理とも不可解とも違う、未開の地に足を踏み入れたような高揚感。
わかりにくさの魅力を短歌に見つけ、
文芸のアート性を初めて実感してしまった。
ひょっとして、わからない方がディープに伝わるのではないか。
誰にでもわかる、わかりやすい文章は
読んだ人の体のどこかに残ることは少ないのではないか?
脱皮したような気分になった。