みんなと同じことへの安心と違和感について
今日、久しぶりにししゃもを食べた。小学生のころ給食でよく出ていたことを思い出した。
小学生の時の自分とししゃも
思えば小学生のころから私はししゃもが好きだった。中の卵がプチプチした感じがすごく楽しくておいしいと思っていた。だから、給食の献立がししゃもフライだとテンションが上がった。
でもししゃもはあまり人気がなかった。「友達に今日ししゃもフライだね、」と言うと、「ね、ヤダね」と言われた。思わず「ね。」と返した。本当はすごくうれしかったのに嫌なふりをした。ししゃもフライは嫌いな子が多いらしく、喜んでいる人はほんの少数だった。
だから私はししゃもフライは人気がないから美味しくないと思い込もうとした。味覚は正直でもちろんそんなわけにはいかないから、必死で好きじゃないふりをした。
私は好きなものを正直に好きと言えない苦しさより、みんなと違うことを嫌った。みんなと同じじゃないといけないと思った。世の中には正解があり、みんなと違うことは間違いだと思っていた。違うことを言って浮いて目立ってしまうことをとにかく嫌った。
目立ちたくないからみんなと同じことを言うようになったのか、みんなと違うことが嫌で、結果的に目立ってしまうことが嫌だったのかはわからない。でもとにかく静かに波風立てずに教室で過ごすことが自分にとっての安心であった。
クラスになじむこと
学生時代でクラスという単位の中で、自分の好きなものを隠し、みんなというくくりの中で生きることに慣れてしまった。
それでも高校生の時は、みんなの興味の対象がいろんなところに散らばっていたし、人と違うからと言って変だと言うような人は少なくなったから、あまり気にならなくなったが、やっぱり仲のいいグループの中で自分の興味のない話が盛り上がっていたら、空気を読んで笑っていた。特に私は、韓国アイドルに全く興味がなく、いまだに一人しか名前を知らない(その一人は高校の友達がずっと推し活をしていたからさすがに覚えた)。でもその時韓国アイドルは流行の最先端でみんながその話をしていた。興味がないからと言ってその場を離れることもできず、愛想笑いを浮かべることがとてもつらくつまらない時間だった。
自分はみんなとは違うのかもしれない、みんなが好きなものが好きじゃない自分はどこか変なのかもしれない、そう思っていた。
急に現れた多様性
大学生になった。
人それぞれ価値観が違うということもよく分かっているし、周りが人の趣味にとやかく言うことはなくなった。クラスという概念から解放されて、みんなに合わせることはもう必要ないと思っていた。だけど人と関わり合う上で軽い雑談は必要で、その時共通の話題がないと相手につまらない思いをさせてしまう。だから自分はインスタとかでみんなが欲しがるものを見たり、音楽を聴いてみたりした。でもどうしたって今流行っているアイドルには興味がわかないし、名前を言われても分からないし、みんなが欲しがるブランド品には魅力を感じない。興味がなければ知識も頭に入ってこないから、会話も盛り上がらない。多様性の時代というけど結局生きやすいのは多数派で少数派は肩身が狭い。
そもそも多数派と少数派という区別をしている時点で多様性ではないと思う。人はそれぞれ点でしかないはずなのに、知らず知らずのうちに分類して、区別して排除しようとする。今言われてる多様性ってこの排除する行為をやめようとしてるだけで区別はされてると思う。少数派を仲間に入れようとしてもただ疎外感を感じるだけだから、やめて欲しい。変な優しさは、人を傷つけることだってあるんだよ。
話がそれた。大学生になっても好きなものを好きって伝えられないことは、小学生のころから何も変わっていない。ただ、自分の価値観を他人に話すことが減って、直接他の人の意見を聞くことも減っただけだ。自分が好きな人だけと関わって、素性を話す必要がない人には自分の話をしないようになっただけだ。合わせないといけない人とは初めから関わらなくなっただけだ。
それがいいのか悪いのかはわからない。だけど、クラスのみんなと合わせて浮かないように過ごしていた時よりは、自分らしく過ごせているのかもしれない。そんなことをししゃもを食べながら思った。
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