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わからんものはわからん、それを受け入れる

わからない事を受け入れて、その上で何ができるか考える。未来のためにできることってその程度なんじゃないかと最近思う。

例えば今、喉にかすかな痛みを感じているとする。
あれ、昨日寝るとき冷えたかな?クーラーつけすぎた?いやいや、これは仕事のストレスかも…待てよ、子供が風邪気味だったな、うつされたか?

ここまで約2秒、ほとんど自動運転的に、無意識といっていいくらい何も考えずに出てきた言葉たちである。

喉の痛みくらいならまだいいのだが、思考はどんどん外に広がる。
朝保育園に送り出した子供の機嫌が悪かったのが気にかかる。昨晩怒りすぎたか?チャットを送った上司の反応が遅いことが気にかかる。忙しいだけなのか、嫌われてるのか…。

とにかく何でも、理由をはっきりさせたい。その上でやれることは全部やっておきたい。そういう考えに囚われて、囚われすぎて、もう自分が囚われていることにも気づけなくなっていた。
けれど、どう考えても「わからない」ことはこの世に存在するのである。

わからない事に対して、原因を探るとか対策を練るとか、そういう「無駄な抵抗」をせずに、そういうものなんだ、理由なんてわからないんだと受け入れる。やってみるとこれは案外難しいことがわかる。

自分も含め、現代人はどんな事にも必ず正解(時には問題の理由)が存在していると思いがちだ。それを探そうともしないのはお前の怠慢、無責任とまで言われかねない世の中である。だから、わからないものをわからないままにしておくというのは、最初はすごく居心地が悪い。心がもやもやする。

でもこの考え方、即ち「わからんものはわからん」的やりすごし方を一度身に着けると、例えば普通に生きてるだけなのにとてつもなく理不尽な目にあったときとか、原因不明の蕁麻疹と不眠に悩んでいる人とか(私のことだ)が、あーもう全部嫌だ!なんで私がこんな目に!と今にも発狂しそうなとき、フッと心を楽にしてくれる時がある。
そうか、理由なんかわからんのだ、ただそれを受け入れるしかないんだ、と。

なぜかわからないけれど喉が痛い、蕁麻疹が痒い。
明日突然死するかもしれない。
そういうどうしようもないことについて、それが秘めている可能性について、ただ思いを寄せる。
その上で、今目の前にあるささいな問題を、もう一度見つめ直す。
そうすることで、もしかしたら自分の望む未来に、少しだけ近づくことが出来るのかもしれない。


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