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短編Ⅵ | 二隻の舟 3/3

「そうですね…」

新しい酒をあたしに差し出した後、娘は再び、キュッキュとグラスを磨き始めた。そして、「答えになっていないかもしれませんが…」と前置きをした後、まるでグラスに向かって呟くように、小さな声で訥々と語り始めた。

「私とマスターは、よく感情がシンクロするんです。私が笑うときは、マスターも笑ってる。マスターが泣くと、私も泣いちゃう。どちらかが寂しいとか、甘えたいとか、触れたいとか思うときは、もう片方も同じように思ってる。どうしてだか、お互いに、それがとてもよくわかるんです」

…泣く…あいつが?
…寂しがって、甘える…あいつが?

あたしは心底驚いた。

…あいつが泣いているところなんて、見たことがない。ママの葬式の時でさえ、あいつは泣かなかった。ママの遺影を抱えて抜け殻みたいになっていたけれど、感情の動きを全く見せなかった。ましてや、寂しがって誰かに甘えるなんて。

娘はグラスを磨きながら、静かに話を続けた。

「…私がいろんな感情を持つたびに、マスターもシンクロしてくれる。だから、私はとても救われた気持ちになって、一人ぼっちじゃなくなって、とても安心できるんです。それが友情や家族愛とどう違うのかっていうと…それはやっぱり、優しく触れ合って、もっともっと深いところでシンクロしたくなるから…。それをただの性欲で片付けられてしまうと、とても悲しい気がする」

それを聞いて、あたしは、自分自身の謎にも触れたような気がした。あたしは、誰かと深いところでシンクロするなんて、まっぴらゴメンだ。この二人みたいに感情がシンクロするのも、まっぴらゴメンだ。そんなの、誰かに魂を乗っ取られるようで恐怖だし、ただただ気持ち悪い。あたしは誰にも侵食されない確固たる『あたし』で居続けたいし、誰かを侵食したいとも思わない。

でも…あいつはそうじゃなかったのか。
あたしはあいつのことを『二隻の舟』の片割れだと思っていたけれど、あいつははなからそんなことを望んでいなかったのか。

あたしは手元のグラスを見つめた。

…かつての女に対するあいつの無関心ぶりを見て、勝手に自分と同類だと決めつけていた。あいつのことを、誰にも感情を動かさずに独りで生きていける男だと思っていた。

でも本当は、泣きたかったのか、あいつは。
寂しくて、誰かに甘えたかったのか。
その気持ちを、誰かにすくい上げてもらいたかったのか。

あたしは、ママの店で女とイチャついていたあいつを思い出した。あの時のあいつは、相手の女のことなんて全然見ていなかった。あの時、あいつは…ママを見ていたのかもしれない。

自分に全く関心を持とうとしない母親。
あいつはママに甘えたくて、ママの気を引きたくて、自分が寂しいってことをママに気付いて欲しくて、心の中で泣きながら、これ見よがしに、女を手荒に扱っていたのかもしれない。


あいつの不可解な行動がなんとなく腑に落ちて、あたしは顔を上げた。娘は自分の気持ちの言語化に納得できたのか、とてもすっきりとした顔をして、あたしを見ていた。

あの2月の雨の夜。この娘は怪我をして、ずぶ濡れで、震えながら泣いていた。この娘だって、これまでのほほんと綺麗に生きてきた訳じゃないだろう。だからあいつは、この娘のいろんなものにシンクロして、救われたのだろうか。



あたしは、この娘を抱いているあいつを想像した。
想像の中のあいつはちっちゃなガキで、仔猫を優しく抱き上げて、ミルクティー色の毛並みに頬を寄せて、涙ぐんでいた。その涙は、悲しいとか寂しいとかではなく、寂しさを埋めてくれる温かい生き物にやっと出会えたという、安堵の涙のように思えた。

…そうか。だから最近のあいつは、あんなに柔らかい表情をしているのか。そいつは本当に、良かったな。

あたしはつい、想像の中のあいつから、もらい泣きをしてしまった。

お嬢ちゃんをタクシーに乗せて見送ったあと、あたしは外階段の下から自転車を引っ張り出した。そして、サドルにまたがりながら思った。

「あたしも猫ちゃんを飼おうかな…」

あたしも、寂しい夜には、フワフワとした温かい生き物を抱きしめてみたい。でも、あいつに「真似をした」なんて思われたら癪に障るから、ミルクティー色の猫ちゃんだけはやめておこう。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

「…ただいま」

ドアが少し開き、真っ暗な部屋の中に廊下の灯りが細く差し込むと同時に、仔猫がご機嫌な顔を覗かせた。俺はベッドの上にぐったりとして、何も言えないまま、うんうんと2回頷いた。枕元には、仔猫が用意してくれた経口補水液やビタミンゼリーがいくつも並んでいる。

「どう?少しは良くなった?」

…うんうん。おまえのおかげで、今朝よりはだいぶマシになった。

「今日は初めての『一日マスター』でとっても緊張したけど、お客さんとお喋りできて楽しかったよ」

…うんうん。楽しい時間を過ごせて良かったな。

「最後に、お向かいのお店のマスターが遊びに来てくれてね。盛り上がって、ついお酒を飲み過ぎちゃった」

…うんうん。同業仲間の会合に顔を出しといて良かったな。

「ふふふ。あのお姉さま、サバサバしてて、とってもお話ししやすいのね。私、大好きになっちゃった。今度はあちらのお店に遊びに行くって約束をしたよ」

…うんうん。仲良しになれて良かったな、あのお姉さまと…。
…ん?『あのお姉さま』…?

「…ちょっと、待て…」
俺は思わず頭をもたげた。

「…あのお姉さまって、誰だ?」
「前に、怪我した私をマスターのところまで連れて行ってくれた、あのお姉さまよ」

…あの女亭主が、店に来たのか…?俺の、留守中に…?

俺はクラクラしながら上体を起こした。

「…あの女、おまえに余計な事を話さなかっただろうな…」
「余計な事って?」
「…俺が若い時にやらかした話とか…何かの暴露話とか…」
「そんな話はなかったと思うけど?」

…そうか、それなら良かった…。
俺はホッとして、ベッドに倒れ込んだ。

…もしも俺の昔の悪事を知ったら、きっとこいつはショックを受けて、何か妙な考え違いをして、また家出するだろう。くれぐれも暴露しないよう、あの女に固く、固く、固く口留めしておかないと…。

「ねえ…暴露話って、何?」
「…え?」

俺は仔猫の顔を見た。逆光の黒いシルエットの中で、仔猫の目が妖しく光っていた。

「若い頃のやらかしって、何?」
「…いや、大丈夫だ。なんでもない」
「私に聞かれたら困ること?」
「…いや、違う違う。おまえに聞かれて困ることなんて、何もない。そんな、やましいこと、俺は全然やってないぞ。ほんとだ。気にするな。な?さっさと忘れろ…」

…しまった…墓穴を掘った…。
弁解すればするほど、仔猫が疑いの眼差しを向けてくる。ああ、うまく取り繕いたいのに、ウイルスに脳を侵されて、全然、適切な言葉が出てこない…


…ぱた。

俺は仔猫の追及を逃れるために、気を失ったフリをした。


<短編v6 二隻の舟  了>

(次話)


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