短編Ⅵ | 二隻の舟 2/3
さかのぼること15分前。
あいつに愚痴を聞いてもらおうと、あたしは店を早めに閉め、この店を訪れた。扉を開けるとあいつの姿はなく、代わりに娘がカウンターに立ち、その真正面に親父さんが座っていた。他の客は既に引けていて、店内にはこの二人しかいなかった。
「おう、アネゴ。いいところに来たな。オレと番犬を代わってくれ」
だいぶ酔いの回っている親父さんは、あたしの顔を見るなり、上機嫌で両手を大きく振った。片手にはスマホが握られていた。
「番犬?」
「そうなんだよ。あのやつ、昨夜から熱を出してぶっ倒れちまっててな。滅多にない機会だってことで、今夜はお嬢ちゃんが『一日マスター』をしてんだ。でもさ、こんなかわいい仔猫ちゃんを一人で店に置いとくなんて、危ないだろ?あいつも随分と心配しててさあ。だからオレが番犬役を買って出てるってわけさ」
「じゃあ、このまんま親父さんが番犬をすればいいじゃない」
「それがさあ、赤坂の猫ちゃんが何度も電話をよこして、ニャーニャーとオレを呼んでるんだよ。そっちにも行ってやらないと可哀そうだろ?他の客も帰っちまったし、そろそろ店を閉めようかって話をしてたら、丁度おまえがやって来たんだ。おまえなら番犬におあつらえ向きだ。地獄の鬼も逃げらぁ」
まあ確かに、あたしは更年期のせいで太って、いまでは貫禄たっぷりのおばさんだ。もともと上背があるし、身なりも派手だし、かなりの迫力があると自認している。
あたしはチラリと娘を見た。娘は黙ったまま丁寧に頭を下げた。顔がピンク色に上気しているところを見ると、今夜はいろんな客から酒を勧められて、すっかり出来上がっているらしい。
今夜はあいつに愚痴を言おうとここまで来たが、この娘と二人っきり、あいつが居たら聞きづらいような話を聞かせてもらうのも、また一興だ。
「わかった。あと1時間、親父さんの代わりに番犬をやるよ」
「さっすが、おまえは物分かりがいいねえ。それじゃあ、あとは頼んだよ」
◆
親父さんがウキウキしながら店を出て行き、あとには、あたしと娘だけが残された。
あたしは改めて、カウンターの中の娘を見た。
小さな顔に大きな目。ミルクティー色の長い髪をゆるく波打たせ、華奢な身体にはスモーキーピンクのモヘアのセーターを纏っている。小さくて、フワフワとして、相変わらず仔猫のようでかわいい。
あたしは、さっきまで親父さんが座っていたスツールに腰を下ろし、『ゴッドマザー』を注文した。娘はコクリと頷くと、慣れた手つきで氷を削り始めた。
「あたしも親父さんと同じように『お嬢ちゃん』って呼んでいい?」
「はい。では、私は『お姉さま』とお呼びしても?」
『お姉さま』…
随分とくすぐったい響きだが、あたしは「いいよ」と承諾した。そして、娘が作った酒を舐めながら、前々から気になっていた質問を切り出した。
「お嬢ちゃんは、あの夜からしばらくして、この店で働くようになったよね。バイトさん?それとも正式な店員?」
「いえ、お給料はいただいていないんです。マスターに連れて来てもらっているだけで…」
「マスターが、お嬢ちゃんを連れて来てる?」
「はい、私、マスターのおうちに置いてもらっているので…」
「え!あいつ、お嬢ちゃんと一緒に住んでるの?」
あたしは驚きの声を上げた。女と一緒に暮らすなんて、そんな面倒臭いことがあいつにできるのか。しかもこんなに歳の離れた若い娘と。
「ええっと…じゃあ、あなたとあいつは、やっぱり、そういう関係なの?」
「はい…まあ…」
娘のピンク色の頬が、更に赤くなった。
「あ、でも、マスターの名誉のために言うと、最初は違ったんです。怪我をした私をマスターが引き取ってくれて、それから半年以上、私はただの『飼い猫』だったので」
「『飼い猫』…?」
「はい。でも私自身が、ただの『飼い猫』でいることに耐えられなくなってしまって…。それで、いろいろありまして、私の方から…」
そう言って、娘は顔を真っ赤にしてうつむくと、とっくにピカピカになっているグラスを取り上げて、キュッキュと磨き始めた。
…つまり、あいつは、猫を飼うような気分でこの娘を自宅に住まわせて、全く手を付けずに半年以上放置して、娘に迫られたから自分の『女』にして、ずっと一緒に暮らして面倒を見てやっているの?そんな手間のかかる面倒臭いことを、本当にあいつがやっているの…?
にわかには信じがたいが、この娘が嘘をついているとも思えない。あたしは早々に一杯目を空け、娘におかわりを頼んだ。
「お嬢ちゃんは、あの男のどこがいいの?」
「え…どこが…か、ですか?」
「あたしはね、わかんないのよ。恋愛ってものが。あたしにはそういう感情の動きが全然ないの。あなたは、どこをどうすれば、あんな男を好きになれるの?それは友情とか家族愛とは、どう違うの?ただの性欲とも違うんでしょ?あたしには性欲ってものがないから、そのあたりもよくわかんないけど」
あたしはちょっと切り込んで聞いてみた。この娘の前であの男がどんなふうに振舞っているのかが気になったし、この娘があの男のことをどんなふうに見ているのかにも興味があった。
(つづく)